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 ピアノと私の人生(2)

ピアノと私の人生(2)
我が家へ初めてピアノが入ったのは一九五一年の事であった。戦争が終わって六年目、社会は混沌としていた。その頃、国内のピアノ生産は、やっと再開されたばかりであった。今から考えてみると、そのピアノは一九三五年頃の、ヤマハ100モデルであった。戦前のピアノの価格は、よく家一軒分、などと言われた程の超高級品であった。私の家は渋谷区神南町、町名は少し変わったが、現在のNHKの近くに在った。私の本籍もそこにある。当時その周辺は「Washington・Heihts ワシントンハイツ」と呼ばれた、アメリカ村が存在した。その一角だけが、豊かなる国の象徴であった。名前からしても、光り輝いていた。原則として日本人は立ち入り禁止であったが、聞くところによると、その中には学校・教会・消防署・病院・映画館、そしてPXがある、と言う。PXとは「PostExchange」略で、アメリカ軍施設の売店の事であるが、当時の日本人には手に入らない物が、総てあった。香水・バター・チーズ・ジャム・ストッキング・コカコーラ・ウィスキー・そしてアメリカ煙草。現在、日本のどこでも手に入る物が、PXにしか無かったのだ。ワシントンハイツの建物は、総て白い平屋であったが、どの家にも豊かな芝生があり、高級大型自動車、大型冷蔵庫、中に入っているであろう豊富な食材・・・、脚の長い美しい婦人達。明るいジャズのリズム、それ等の総ては、当時の日本人にとって、「まるで夢のような生活」であった。確かにその頃のアメリカは、光り輝く国であった。
その当時の渋谷には大きな建物、ビルディングらしいのは、駅前の東横デパートぐらいであった。正に隔世の感がある。渋谷駅前と言えば、「ハチ公」の銅像で有名であるが、当時その前に、四階建の証券会社のビルが在り、そのビルをその儘の状態で数十メートル移動する、と言う大工事が行われており、数か月かけて別の場所へ動かした。当時としては、画期的な「引越」なので、新聞紙上を賑やかしたものである。テレビなどは未だ無かった。私の中学一年の時である。私は毎朝その脇を通り、常磐松の小学校へ通った。小学校へ通学する?通うべき中学校が新築中であったので、仮校舎という訳である。常磐松には、皇族の仮御所が在り、近くには、国学院大学が在った。小学校には戦前からのプールが、使える状態で残っていた。東京でも環境の良い処であった。このプールを使って、最初で最後の水泳大会が開催された。現在と違い「水泳教室」などが無かったので、泳げる生徒はす少なかった。止むを得ず私がクラスの代表として出場したが、私の泳ぎは、疎開先の新潟の海で覚えたものである。海水と清水とでは、身体の浮力が違う、水泳大会に備えた練習もなし、おまけに準備体操もなし、そうした状態で出た私の結果は、惨めなるものであった。よくもゴールができたものである。それよりも、上級生の女子生徒の水着がプールから上がる時に外れ、上半身の片側が露出してしまい、「ハッ」とした鮮烈な想い出がある。学校の帰り道は、渋谷駅の方を避けて、美竹町の方へ寄り道をして帰る。すでにそうした町名はないので、現在の地名でいうと、渋谷一丁目の方面である。何故そちらへ寄り道をするのか、美竹町には、プロ野球巨人軍の強打者、青田昇選手の家が在ったからだ。青田選手の家は大きくはなかったが、瀟洒な感じのする造りであった。竹細工の家囲いが、今も目に残る。プロ野球選手といえば、もう一つの貴重な想い出がある。美竹町の方から山手線の小さなカードを潜って来ると、宇田川町の飲み屋街がある。その宇田川町の路上で、東急フライヤーズの大下選手が、同窓の松本君とキャッチボールしているのを、私は目撃したのである。「お〜い、うらやましいだろう、大下さんだぞ」「君もやらないか」大下選手は、実に気軽に私に声をかけた。私の生涯の後悔の一つは、この時にキャッチボールをやらなかったことである。余りにも突然なことに、吃驚してしまったのであった。その後、聞いた話によると、大下選手はなんと飲み屋の二階に住んでいたと言う。それは、信じられないことであった。青田選手が、巨人軍の歴史に残る打者である。とすると、大下選手は日本プロ野球史上に残る、大スター選手なのである。戦後の野球界に、彗星のように現われ、ホームランの記録を、大きく塗り替えた強打者で、人気もあった。青田選手が瀟洒な家に居を構えるならば、大下選手は大邸宅に住んでいなければならない。そういうスター選手であった。そういうところが「波瀾万丈」でフランクな大下選手のエピソードである。
現在の西部デパートの場所に「渋谷松竹」という、当時としては、立派な封切館が在った。その映画館で、伝説の美女「原節子」の、映画撮影風景を目の当たりにしたのも、その頃であった。
深夜のロケ現場に現れた、原節子は悠然と現れると、優雅に去って行った。全体にオフホワイトに統一されたスーツ・煌々と光り輝くライト・場面設定が「午後」から夕方なのか・・・。正に大輪の薔薇の登場であった。しゃがんで見ていた所為か、かなり大柄に見えた。こんな日本女性が、現実に存在するのか、それが、私の実感である。後から調べてみると、三十四歳ぐらいだったようだ。その場に居合わせたのは、十五分余りか・・・。「カット」有名な小津監督の声がかかると、その場で固唾を呑んで見ていた多くの群衆から「フゥー」という溜息が流れた。
さて・・・。ピアノの話である。学校の帰り道は「稲葉君」という級友と一緒のことが多いのだが、宮益坂の所にイナバピアノという店があり、その店の前を通ると「この店は僕ん家でやっているんだ」と言う、子供らしいホラを吹くことがあった。う〜んピアノか・・・、という程度の感じであったが、その十数年後、そのイナバピアノの商品を運ぶことになるとは、思いもよらぬことであった。
そこから宮益坂を下りて行き、駅方面に向かい左側に、K楽器店が在った。我が家のピアノはこの楽器店より購入した。ピアノが清算開始していても、東京までは余り入らなかったらしい。悲惨な戦争を経て・・・当時の状況から考えると、よくも優良中古品が残っていたものである。ピアノは二十万円。母は値切る事もなく支払った。サラリーマン月収が月一万円にも満たない時代であった。とにかくピアノそのものがない時代である。このピアノはN女子大へ通っていた姉が弾いた。我が家の本拠地は茨城県に在り、この家はW大学へ通学する兄と、中学生の私と、私の勉強を見る、家庭教師とで住んでいた。ついでに言えば、お手伝いさんもいた。つまりこの家は、兄弟が勉強するためだけに手に入れた家であった。家の前の持ち主は、事情があって急遽帰国した「華僑」である。渋谷の駅まで徒歩でも楽に行ける、そうした好条件の割には格安であったようだ。なにしろ少ししか居なかった中野の家から、引っ越したぐらいだから。庭には、苔生した灯篭もあり、凝った造りの池には、大きな鯉も泳いでいた。和洋両用のトイレがあり、応接間と広い玄関と小部屋、十畳と洋間とお手伝いさんの部屋六畳の部屋、勿論お風呂と台所、二階には洋間と十二畳の和室、この和室には「天下の情勢は七年にして一変す」という、勝海舟の書が飾ってあったが、誰も気にも留めなかった。この書は、気が付いた時には何処ともなく消えていた。
家業は、茨城県北部に有る「水産業」であった。創業者は祖父であった。すでに地元の人でさえ知らないようであるが、この地方には、一九三五年から一九五八年の間、信じられないような魚の大群が押し寄せていた。近海沖十キロ辺りに、大規模な網を張る、全国有数な規模で、正式には「定位置網」と言う。その網を早朝百人以上の若い衆で引き揚げる。鮪・鯛・鮃・鰹・鰤・鰯・秋刀魚、時としてマンボ、そして三百キロもある大亀、漁師は絶対に亀だけは殺さない。一度陸に揚げた亀に、必ず一升酒を無理やり呑ませて、海に戻す。亀は、この有難迷惑な振る舞いに目を白黒させる。沖へ帰って乙姫様に、どんな報告をするのだろうか・・・。
水産業の経営は、社長の才覚と手腕に関係無く、魚さえ押し寄せれば、信じられないような利益を呼ぶ…。こうした経緯があり、屋敷もピアノも購入したのである。誰でも知っている通り、昭和十四年あたりから(その前から)軍国主義の台頭により、日本の雲行きが、段々と怪しくなり、昭和二十年の夏の暑い日に敗戦を迎え、更にその後の十年余り、信じられない食料の欠乏状態が続くのであるが、それと反比例するがごとく、漁獲高は恐ろしい程に順調であった。大型鮪などは取れ過ぎてしまい、頭部の部分を鋸で切り、棄てるような事もあった。それは当時の大型業務用冷蔵庫と、物流状況が極端に悪かった為である。止むを得ない処理とは言え、昨今の鮪の高騰価格を考えると、何とも残念な話である。創業者の祖父は、立志伝中の人物で、人望も厚く、あらゆる機会に各地の神社仏閣に多大な寄進をする人であり、昭和十年代に新潟県に立派なお寺を建立し、昭和十一年には、茨城県北部のK町に(現 日立市)壱万円の現金を寄附した。私はその新聞記事を、県立図書館の古い新聞記事で発見し、本当に仰天した。当時の壱万円は、現代に換算すると、一体幾らになるのだろうか?父もまた昭和十九年には、当時の陸軍省に、戦闘機を献納している。その写真は、今も私の手許にある。昭和三十年代に入ると、近海の魚は遠くへ行ってしまい、漁獲高は激減し、やがて家業は見事に倒産する。話は多少前後するが、私が中学二年の時、渋谷の松濤中学は完成する。戦後初めて完成した本格的な鉄筋コンクリートのモダンな建築であり、東京都の「モデル・スクール」である。渋谷の松濤町といえば、戦前からの高級住宅街であるが、佐賀藩の鍋島邸を始め、大会社の社長の家や、有名芸能人の屋敷が多い。その頃は、名優 久松保夫邸が近くに在り、その後、松濤公園の前は山本富士子の邸宅が完成する。中学校の造りは、当時のものとしては最近の様式であり、二階には広い廊下があり、珍しいkとに階段教室が在った。この中学出身の著名人には、占い界の女王と言うより、御意見番として存在感のあるH・K女史や、映画監督の森田芳光氏も名を連ねる。担任の渡辺先生は、音大の出身で音楽の先生であった。家庭訪問の折に、我が家にピアノがあったので、かなり驚いたらしい。なんとその頃は、学校にもピアノが無く、オルガンでなんとかやっていたのだ。先生は高い時間貸しのピアノで、個人的に頑張っていたようだが、それ以来週に一度、我が家へ弾きに来るようになった。その結果、私の音楽の成績はグゥーンと上がり、顔から汗の出る思いであった。このピアノの搬入の時、私はいなかったのであるが「たった二人で持って来た」言って、お手伝いさんが驚いて話していたのをなんとなく思い出す。玄関に入る前に、六段ばかりの階段のある家であった。彼女はその時、作業員に「何貫ぐらいあるの?」と聞いたらしい。すると「六十貫ぐらい」と言う返事が返ってきたので仰天したらしい。地方出身で、いろいろと人生の苦労をした彼女には、その「生活の重さ」が分かっていたのであろう。その話を聞いても「重み」など分からない私は「ふぅ〜ん」と思っただけである。私は全く、箸より重い物を持った事が無い少年であった。それにしても、キログラムよりも、尺貫法が生活に根付いていた時代であった。家に遊びに来た友人のN君は「僕の家にも、ピアニストが時々遊びに来るんだよ」と言った。「まだ大学生なんだけどね、ジャズで稼いでいるんだぜ。中村八大って言うんだ」 そう言えば、時々ラジオで聞く名前である。N君はその後、加山雄三のバンドに参加していると、当人から直接聞いた事がある。ハンサムな男で、東宝映画のちょい役で見かけたことがあった。同級生には、優秀な生徒が多く、無作為に分けた私のグループは八人であったが、その中の二人、O君とFさんは「東大へ行くんだ」と目標を語り、その通りに入学した。そう言う話を聞いても、何も感じないし、住み込みの家庭教師までいるのに全く「知的なもの」には興味が持てない。私はそうした中学生であった。家庭教師も完全にサジを投げ出し、一度も補習授業には参加しなかった。正確に言えば、〇〇大学出身などと言うのが嫌いな少年であった。それでもN大学の附属T高校に入学した。私は知的な人間からは、なんとなく「嘘くさいもの」を感じてしまうような少年であった。
私の高校時代と言うのは、映画の全盛時代であった。テレビがスタートしたばかりで、画面は小さく勿論白黒で、しかも映りは良くなかった。評論家の大宅壮一氏は「電気紙芝居」と言った。カラーTVなど夢であった。しかし映画の人気は絶大で、有楽町界隈の有楽座であるとか日比谷映画劇場で、封切の初日に観ることなどは、最大の贅沢であった。ヨーロッパの街並みなどを観て、実際に行ってみようなどと考えた人は少なかった。渡航に難しい制度があり、一ドルは三百六十円、一ポンドは千八円もした。その頃観た映画で、一番印象に残った映画は「APLANCE・INTEESUN(陽のあたる場所)」という、白黒のアメリカ映画である。場所はピカデリー劇場、主演はモンゴメリー・クリフト・エリザベス・テイラー、監督はジョージ・スティーブンス。
大変な悲劇映画で、原作は「アメリカの悲劇」という、シオドア・ドライザーの物語である。劇場は観客の嗚咽に包まれた。
アカデミー監督賞・脚色賞・撮影賞・その他の賞も総ナメにしたような、文句なしの名作であった。この映画はDVDもあれば、時々TVでも放送される。しかし、昔観た時の感動は無い。つまり、こうした「名作」であっても、その時代と合致してないと、印象は薄れてしまうものなのか、観客側の適度の「飢餓感」も必要なことであるらしい。貧しい生い立ちの青年ショニーは、大成功した親戚の引きで、紡績工場で働き出す。そして直ぐに同僚の若い娘と恋仲になる。ジョージに従兄弟たちは、上流階級のパーティなどに引っ張り出す。何か居心地の悪いジョージは、パーティを抜け出し、一人でビリヤードなどをして気を紛らわす。その部屋へパーティに飽きたヒロイン、エリザベス・テイラーが入ってくる。何という美しさ、「息を呑む」とはこのことか・・・。
全く育ちの違う二人は、一瞬にして恋の炎を燃やす。これがtragedyの始まりであった。ハンサムな名優、モンゴメリー・クリフトはまだ若く、リズは十八歳ぐらいであった。ロードショーで映画を観る事もさることながら、試写会で封切前の映画を観る、ということは、当時としては最高の贅沢であった。
都心のSホールで、試写会で観たのが、西部劇「シェーン」であった。前宣伝も行き屈き、期待出来そうな予感がした。少し言わせてもらうと、私は題名を聞いただけで、名作か駄作か・・・分かる特技があった。この映画で一番信用出来たのが、やはり監督のジョージ・スティーブンスの名前であった。一人去って往く男の後姿に、何とも言えない深みを感じた。実はこの映画の前に、「映画の友」の編集長、淀川長治氏のスピーチがあったのだが、満員の観客は、その巧みな語り口に抱腹絶倒、ハリウッドのスター達の交流話も自然で、心の底から楽しくなるものであった。それは淀川氏がテレビに出て、全国的な有名人になる十年も前の話である。
ところで、この画面に目を通している人にお聞きしたいが、日本の俳優で外国でも通用する人は誰でしょうか?若い人なら即座に「渡辺謙」と言うだろう。団塊の世代ならば「三船敏郎」の名前を挙げるかもしれない。しかしその前に、「早川雪州」と言う大スターが存在したのです。淀川長治氏はその時「セッシュウ・ハヤカワ」の話をしたのです。実は私も名前だけは知っていたのですが・・・。淀川氏がハリウッドで(アメリカへは行くだけで‘箔’がつく時代)ハンフリー・ボガードや、著名監督にインタビューした時、必ず名前が出るのが、セッシュウ・ハヤカワだったと言う。その時、観客の多くが、そんなビックスターだったのか・・・と驚いたのです。人気絶頂の時のゴージャスな生活が、まるで嘘のように華やかで、四階建てのお城のような家、フルバンドを二組も入れての派手なダンスパーティ、シャンペンを貸車でハリウッドへ運んだこと・・・。(当時の生活レベルは、葡萄酒の時代で、ワインさえ飲んだ事の無い人が多かった)
運転手を始め、多くの白人のメイド達、そうしたエピソードのハイライトは、セッシュウが主演映画の試写会で劇場に到着した所、少し水溜りがあったと言う。すると出迎えた白人の女性が、自分の毛皮のコートをすかさず、その水溜りに敷いたという。すると、セッショウはその毛皮のコートを踏んで、劇場に入ったという。淀川氏の話が面白く興味深いものであったが、私には信じられない部分もあった。何しろ、戦後十年も経っていない時代であったから・・・。ところが、それから数十年後、私は早川雪州の伝記を読み、こうした夢のような話が、全部本当にあった事であると識り、本当に驚くことになる。ここまで読んで来ても、早川雪州の輪郭がつかめない方々に、分かり易く説明すると、今も時々TVで放送される「戦後にかける橋」という映画で、捕獲収容所長、斉藤大佐を貫禄十分に演じた人である。早川雪州は、この大佐一本で帰り咲いた感もあるが、この国際合作映画に出るまで、二十年以上も忘れられて苦しい時代があった。
さて、私が淀川氏の話を聞いて、一週間ばかり経った頃であった。何気なく新聞の芸能欄を見ていると、早川雪州が六本木で、演劇スクールを開校する、という記事が目に入った。寝ながらその新聞を読んでいた私は、思わず立ち上がった。相当なアメリカ映画狂であった私は、ずっと早川雪州というスターよりも、アメリカで大成功した人物として、気になっていたのであった。兄や姉にそのその新聞記事を見せると、仮にその記事が本当であったとしても、それは単なる名前だけで、当人がそうした事をやる筈が無い、と口を揃えて言った。高校在学中であったが、私はその演劇スクールに願書を出す事にした。好奇心というより、単なる「ものずき」である。その頃、人より恵まれていた為か、私は自分の将来がよく分からなかった。何をすれば良いのか、深く考える事も無かった。取り敢えずすることは、身上書に家庭環境に写真を添えて、自分の身長・体重や、胸囲を書いて、安いと言えない金額を揃えて出す事である。その場所は六本木に在った。誰もが東京六本木といえば華やかな場所を想像するが、昭和三十年頃の当時を、正確に覚えている人がどれだけいることだろう。東京オリンピックの、約九年前のことであり、都内の道路そのものが、完全に様変わりしてしまった。高速道路がそうさせたのだった。
今から考えてみると、現在の首都高速三号線、六本木通り材木町寄り、渋谷からバスで行くと、右側一本裏側を行き、左側に「早川アクターズ・スクール」は在った。当時は一本横道に入ると、寂しい所であった。あの戦争を経て、よくも残っていたものであった。軍関係の建物であったことは、直ぐに分かった。本造で堅牢で質実剛健、遊び心など少しも無かった。三十年前位によく見掛けた、地方の小学校の講堂のようなものを想像してもらえば良い。誰もが入れた養成所ではない、水着などに着替えて身体つきを見るような、試験もあった。私が今でもはっきり記憶があるのは、クレゾールの匂いである。消毒剤が強く鼻を刺激した。・・・・ということは、華やかな六本木も、水洗トイレではなかった。かなりの数の応募者が集まっていた。忘れかけていたが、早川雪州の名前は、少しも衰えていなかった。講堂の一角には大鏡があり、バレエ用のバーがあり、そしてアップライトピアノが一台置いてあった。普段はバレエ教室に使っていることが直ぐに分かった。その講堂の隅の方に、簡単に仕切った部屋があり、セッシュウ・ハヤカワの全盛時代のスチール写真が三十枚近くも展示されていた。あの淀川長治氏の話は、全て本当であったのだ。写真の中には、歴史的な大スター達が数多く、映画で識っているのは、ハンフリーボガードぐらいのものであった。初日の試験にパスすれば、三日後に通知が来ることになっていた。帰りの渋谷方面のバスには三十人ばかりが一緒になった。誰もが今更ながら、セッシュウ・ハヤカワの超大物ぶりに驚いていた。まるで劇画の世界である。
「一体、何割くらいの人がパスするのかしら?」と、横浜から来たという美女が言うと、「殆ど全員がパスするさ」と、かなり個性的な青年が口にした。「考えてみなよ、俳優座や、文学座じゃあないんだよ。生徒は多い程、良いのさ。つまり儲かるんだよ、スクールが・・・」「それより本当に早川雪州にようなビッグスターが関係しているのかね?」興奮状態で話している内に、バスは直ぐに渋谷に着いた。

・・・やはりというべきか、私の家にも合格通知が届いた。その時初めて、スーツにネクタイをして六本木に向かった。母が上京して選んでくれたものであった。母はビッグネームに驚いていた。今更・・・単に名前だけで何の関係も無いかも知れない・・・とは言い出せなかった。一緒に付いて行き兼ねないので、それだけは「規則だから」と言って、断った。広いだけの講堂には、かなり個性的で特徴のある若い男女で、溢れていた。やはり他の学校とは違っていた。既に何か所も、劇団を渡り歩いて来た、と言う青年や、かなりの美女もいた。いずれも服装だけは一張羅で決めていた。(当時の言葉で、たった一枚だけの着物と言う意味である。現在のように、着るものの豊富な時代では死語になってしまった・・・)
だだ広い講堂の隅には、事務所らしい小部屋が(いや、ブースというべきか?)急造してあった。その中に、ビッグネームが待機していると言う者と、「初めから居る訳が無いだろう。その内、顔でも拝めれば良しとするしか無い」と言う二派に分かれ、講堂は騒然としていた。
ややあって、全く突然に私の名前が呼ばれた。後から考えてみると、それは単に「アイウエオ順」であったらしい。拍手などが起こり、私は自分でも、顔が赤くなっているのを感じながら、及び腰で中に入った。正面には立派なマホガニー色のデスクがあった。そこに座っていたのは、早川雪州氏であった。堂々たる貫録、実に立派なマスクである。それに肩幅が広い。後から調べてみると、この時六十六歳ぐらいであった。とてもそんな歳には見えなかった。
「ほぅ・・・君が一番若いようだなぁ。背は五尺八寸か・・・今の人は背が高くて良いなぁ」
私はセンチメートルで書いた筈なのに、と思いながら、小声で「はい」と言った。脇に座っていた理事長らしい初老の男が、「君、そんなに固くならないで」と言った。私は自分でも、声が掠れているのが分かった。
「ほぅ、君の家は茨城で水産業をやっているのかい」 「はい」
「底引き網かい?」 「いいえ、定位置網です」
「ほぅ、大謀網かい。それじゃ、若い衆が大勢いるね・・・」 「え、百五十人ぐらいと聞いております」

・・・そうしたやりとりがあって、私はブースから出てきた。「ねぇ、ねぇ、何を聞かれた?」そう言いながら、十人ばかりの応募者に取り囲まれた。その時私は、肝心な事は何一つ聞かれなかった事に気付いた。
たとえば、「特技」とか「志望の動機」である。冘も・・・、私には特技も無いし、志望の動機に至っては単なる好奇心?である。結局私は高校在学中から、このスクールに一年ばかり在籍したが、ピアノとは直接関係無いので触れるつもりは無いが、それより私が二十年以上も気になっていた事があった。どうして早川氏は「大謀網」と言ったのか?従業員の事を「若い衆」という風に言ったのか?その後・・・私は氏の一代記を読み、総てが承解した。それは正しく、波瀾万丈なものであったが、」早川雪舟氏は千葉県の出身で、生家は私と同じ、網元で船主であったのだ。このスクールは前述したように、バレエ教室と併用していたので、講堂の中央にピアノが置いてある事があった。当然、邪魔であるので、講堂の隅まで移動しなくてはならない。床に疵が付くので、絶対に引き摺るわけには往かない。私がスクールへ行く時間帯は、女性の方が多く、非力であっても私が加わり、四人ばかりで、その作業をするのであるが、毎回毎回、私は腕が抜けるような思いをしていた。「何という重さだ」今から考えてみると、そのピアノは重いピアノの代名詞、ヤマハの300型であったようだ。そうした作業をいつも軽々と、涼しい顔でやる青年がいた。正に余裕綽綽である。時にはランニング姿になり、その見事な裸身を、それとなく見せる時もあった。「こいつ、女性達の目を気にしてやがる」と思ったが、何とも羨ましい。
「どうしたらそんな身体になるの?」 「ボディビルだよ」
我が意を得たりと彼は答えた。その名を辻村達郎といった。すでにプロレスラー達の活躍で、そうした肉体鍛練法がある事は、それとなく識っていたのであるが、「俺みたいな細いのがやっても、なんとかなるものかな?」と聞いてみた。「まぁ、三年ばかり、もしかしたら五年ぐらいかかるかもしれないな」私の身体付きを見ながら、辻村はそう言った。「色んな理論的なこともあるけどね、一口に言うとね、筋肉に苦労させるんだよ。よく言うじゃないか、苦労した人は違うって」「こいつ実に上手いこと言うな」私は本当にそう思った。

さてここまでこの話に目を通してきて、すべてに順風満帆で、何の苦労もなく過ごしてきた、と判断されても仕方がないが、私は何回か生命の危機に瀕死している。それは一九四五年当時、茨城県日立市に住んでいたからである。アメリカ運は工業都市日立に、巨大な地下工場が存在すると、間違った判断をしたようだ。その為に偵察機や小型のグラマン戦闘機が上空に飛来した。グラマン小型機は単独で飛行して来て、一人で漁に出ている人や、地上の歩行者を狙い撃つことがあった。戦争に於いて、一人二人を殺傷しても大きな変化が無いので、明らかにパイロットの射的感覚である。犠牲者に申し訳無いが、そして不謹慎でもあるが、射手の腕は的確で、何人もの死者が出た。当時のことであるので、犠牲者はコンクリートの上に筵が敷かれ、無造作に置かれる。母は必ず仏様に線香を供えた。近くで撃たれた死体を見ると、まるで眠っているようである。弾丸の入った部分は小さく、出た部分はかなり大きい。それは銃砲が螺旋状であるからだ。弾の大きさは、大人の中指をかなり太くしたくらいであった。日立市の状況は日々厳しくなり、米海軍の艦砲射撃の洗礼を受けるようになった。幸いと言い方はおかしいが、我が家は海岸に接近しており、恐ろしい砲弾は、ヒュンヒュンと、頭上を通り越して、日立の各工場に落下する。そして最も恐ろしいのは、B29からの爆弾の投下である。通常は五百キロらしいのだが、地下工場が在ると判断した為に、何と一屯爆弾を日立市に投下した。少し前にラジオから「空襲警報発令」と言う、臨時放送が何回かあるのだが・・・。鹿島灘方面から、三角形の編隊を組んで進行してきた大飛行機は、次々と爆弾を投下し始めた。この場合、真下の時より斜めの方が危ない。私は幼かったが「恐怖心」ろ持って、はっきりと記憶している。本当に雨霰が互くの、大量投下である。その時、一緒に空を見上げて居た船頭の一人は、大切な「恩賜の煙草」に火を点けて、まるで他人事のように「これでお釈迦だなぁ」と、ポツリと言った。人の力ではどうにもならなかった。恩賜の煙草とは、菊の御紋の印があり、宮内省から賜ったもので、特別な日に燻らすものである。また「お釈迦」とは、もう駄目だという意味である。東京の街工場あたりでも、一九五五年ぐらいまでは、「不良品」が出た時、そう表現していた。実は私が本当の恐怖を味わったのは、その時ではない。はっきり目視したのであるから、その時は夕刻であった。
・・・・・それはその数日後の、真夜中の空襲であった。すでに私達一家は、防空頭巾を被り、防空壕へ避難する寸前であった。この世のものとは思えぬ落下音と共に、大音響が炸裂したのだ。ほんの数十メートル先の至近弾である。四人の子供と両親は、団子のようにひと塊となった。続けてもう一弾・・・、熱心な浄土宗の信者である両親は、「南無阿弥陀仏」を唱え始めた。
絶体絶命、為す術無いとは、この事である。骨組みのしっかりした造りの家が大きく揺れ、政治家 高橋是清の額が、六人の頭上に落下した。一番下にいた幼い私も、なんとなく「これで終わりだ」と感じた。・・・数分間は震えながら、そうした状態が続いた。ところがその日の空襲は、それで終わったのだ。多くの人が犠牲になったのに、我が家の被害は皆無であった。「助かったのは、偏に神仏のおかげ・・・」全くその通りであったと私は思う。しかし、人間の運命とは、分からないものであると思う。もしあの時、B29の爆弾投下射手が一秒早く落下させていたら、その時の風向きが変わっていたら・・・、私達の命はそれまでであったのだ。幸運はそればかりではない。一九四五年の敗戦後も、依然として、魚の豊漁は続いた。人々が「食」に困っていた時、贅沢なものを食べていた事になる。この日立市の空襲で、私は数多くの変死体を見たが、一番忘れ難いのは、電線を強く握っていた、肘から上の人間の「右手」であった。数百メートルも飛んできたその右手は、その電線を自分の意志で、しっかりと掴まえたのである。それは半ば偶然であったのかもしれないが、私は人間の「業」のようなものを感じる。
やがて時が経ち我が家は倒産する。渋谷の家は人手に渡り、母が上京し、私と新宿区西大久保に住む事になった。この家は伊勢丹から割と近く、新大久保の駅周辺も静かで、しかも一軒屋の新しい家、昔の誼で、母の知人が奔走してくれたのだった。隣には当時としては風呂付の高級アパートが在り、その二階には、当時人気最高のマンガ「赤胴鈴之助」の原作者T先生が内縁の女性と住んでいた。このドラマがヒットしたのは、ラジオのテーマ曲が非常に快適で、耳障りが良く、夕方になると街のあちこちからよく流れていた。ラジオからテレビ、そして映画にもなったメガヒットであったが、T先生の家には電話がなかった。というよりは、当時の事情が非常に悪く、申し込んでも半年以上もかかるような時代であった。携帯電話の時代の到来など、まるで夢物語である。それでもアメリカ映画の影響か、自動車電話ぐらい出来るだろう、となんとなく感じていた。高級アパートの一階は、親戚同様の家で、私がそこにいると、よく出版社や、テレビ局から電話が入ったので、何回か先生の部屋へは連絡に行ったものである。先生は長年、炭鉱で御苦労なされ、あのマンガで大ホームランを打った。ということである。
西大久保へ引っ越したのを期に、私は水道橋に在る「後楽園ジム」へ入会した。その場所は現在の場所ではなく、後楽園競輪場に隣接していた。人気のあった革新派M知事が登場するまでは、競輪場が存在していたのだ。それにしても、独特のスマイルを浮かべたM知事の人気は素晴らしく、現石原知事も弟の大スターの協力があっても、勝てなかった。競輪は一年を続けてやるわけではなく、空いている間、ボディビルジムとして利用する。という目的で始めたらしい。当時として本格的なバーベルは勿論のこと、二階の大きな着替え室、(期間中は八百長を防ぐ為)選手が缶詰にならないらしかった。勿論、お風呂も完備してある。当時としては最高の施設であった。アメリカからそうしたボディビルが入ってきたばかりで、本格的な指導者は、ウェイト・リフティングの窪田登氏ぐらいであった。私もその講義と、怪力ぶりを拝見したことがあったが、若いのに説得力があり、岡山訛りが魅力的であった。当時の後楽園ジムの指導者は、鈴木智雄氏である。旧海軍の出身で「海軍体操」の権威せあった。帝国海軍が壊滅して十年余り、二度と若者達を鍛えることはない、と思っていたところ、コーチの話があり、張りがある指導ぶりであった。いつも最高の生地で仕立てたスーツで現れる。「うわぁ〜すごく高そう」私がそう言うと、一人の先輩がこう言った。「君、知らなかったの?先生の本業はね、銀座でも有名な高級紳士服店のオーナーなんだよ。ぶら下がりなんか一着もない、全部注文仕立てなんだ。場所柄、有名人の客も多いらしいよ」
私は道理で板に付いた着こなしだと、納得した。表情もにこやかである。しかし一度体操服に着替えると、指導者のそれに変わる。バーベルを手にする前の準備体操、終わった後の終末体操は、入念を極めた。そして柔軟体操(ストレッチ)である。鈴木先生の体育理論の根源は「柔軟・強靭・かつ巧緻」である。身体は柔らかくなくてはならない。そして強く、尚且つ巧みな身のこなし。というような、分かり易いようで、かなり高度な理論である。私はその後、「気は速く、心静かに身は軽く、技は烈しく眼は明るく」という有名な言葉を識ることになる。この言葉は、あの宮本武蔵が残した言葉である。人生の成功者、(例えTVでしか見たことない人であっても)を見ると、この二つの言葉は悉く当て嵌まる。この二つの言葉で取り敢えず参考になるのは「柔軟性」と、「眼は明るく」あるいは、「眼は涼しく」生きること、ぐらいであろうか・・・。とにかく私の人生に役立った格言である。
後楽園のトレーニングは、かなり規律正しいものであったが、その儘現代のジムのには通じない部分もあった。トレーニングを終了すると、鈴木先生の体育論と、人生訓を拝聴すべく会員達が集合する。いつも二十人ぐらいはいたであろうか。「諸君は画家のピカソが、八十歳を越しても、何故あのような、力強いタッチの絵が描けるのか、考えた事があるか・・・」
ピカソの絵は難解で、分かったふりは出来ても、本当に理解出来る人は少ない。私の理解度は、岡本太郎の「受け売り」である。・・・・どうしても普通の人には分かりにくいか、それは「美の基準値」を越しているからである。
「・・・・それはあの体力だよ。あの逞しい胸板があの力強く素晴らしい絵を描かせるんだ」先生の声は大きく、眼光に迫力があり、話には説得力があった。嘗て数百人を一度に指導した自信である。五十年以上も前の話であるが、私の記憶力より、鈴木氏の力強い話術を信頼して頂きたい。
「芸術も結局は体力である。その意味では、現在私がコーチをしている作家の三島由紀夫先生の作品も、あるいはその生き方も、自ずと違って来ると思うな・・・。それにしてもあの方は、実に緻密な人だなぁ。三島さんの人生は何もかも計画性があり、その上非常に意思がお強い。あの頭脳に力と筋肉が付けば、何か人が驚くような事をやる方だなぁ。流石に陛下(昭和)から銀時計を賜った人だ。それにしても私は、小説家というものを、完全に誤解していたよ・・・」
三島由紀夫は、その頃から有名に成りつつあった。しかしそれは一部の熱心な読書家の間であった。「銀時計」というのは、学生時代成績優秀で、戦前天皇から、直接下賜されたものである。「小説家を誤解していた」というのは、銀座のクラブなどで、派手に遊んでいる流行作家達を、実際に見るにつけ、筋金入りの硬派の鈴木氏としては、どうにもこうにも「鼻持ちならないもの」を感じていたらしい。その昔「海軍相撲」の猛者で、全国レベルの選手であったようだ。戦後、三島由紀夫はある本で、そうした鈴木智雄氏を「豪傑」と評していた。正に天才豪傑を知るというところである。
そうした鈴木氏の熱弁や、熱血指導ぶりに対して、少し醒めた感じで見ている青年がいた。名を石川逸男といって、私より三歳上である。私達は直ぐに親しくなった。とにかく二人の会話の内容や、冗談のセンスがピッタリ会うのである。彼の中野の家や、私の新大久保の家にも訪問するようになった。いつもジャンパーを着てジムに現れるようになった。私は彼がどんな職業に就いているのか?知ろうともしなかった。そうした彼が、学生服を着てジムに現れたことがあった。「へぇ・・・石川さんって学生だったの?」「実は一度ある学校を出てね。また入り直したんだよ」「そんなことを言って本当はテンプラじゃないの?」「そうかもね、ところで君、僕の着ているこの学生服はどこのだと思う?」私はそうしたものには一切関心のない男である。「そうだなM大か、H大かな。俺の兄もW大出たんだけど・・・」「いや、君って見る目あるね。でもね、僕は少なくともテンプラじゃないよ」
テンプラとは当時の言葉で、偽学生のことであった。石川はとにかく、文学関係のことについては相当詳しかった。私の家にも作家の全集などもあり、姉が国文科のの出身だったので、少なくとも表面上の話題には付いていけた。ある時・・・たまたま三島由紀夫の作品について、話題が及んだことがあった。「ふふふ・・・お由紀さんねぇ、彼は凄い作家だよ」「え・・・お由紀さん?そんなに親しいの?」「まぁねぇ、普通の人はね『潮騒』とか『美徳のよろめき』とか『金閣寺』とか、映画の原作者として知っているようだけどね、僕は君に『仮面の告白』を推薦するね」
「何か意味あり気な題名だなぁ」「外国語にも翻訳されていてね、向こうじゃノーベル文学賞候補なんていう話もあるらしいよ」「そんなに凄い作品なの?」「とにかくあの時代にあれほどの作品をモノにするとはね、ふふふ・・・」
とにかく読んでみようと思ったが、何故か石川の含み笑いが気になった。「君も割といろんなことを知っているようだけどね、すべて週刊誌的な三行知識だなぁ。このあたりで、一冊の本をじっくり読んでみたらどうだい」確かにその通りであった。私は全く本を読んだ事がないわけではない。それまでもスタンダールの「赤と黒」ぐらいは読んでいた。
石川がある時、私の家に忘れ物をして行ったことがあった。どうやら身分証明証らしい。中を見て私は些か驚いた。【東京大学・大学院東洋哲学科】と文字が印刷されていた。次の日には彼に返した。「・・・倒々ばれちゃったな、君とはこういう(学歴や肩書)ことなしに、男と男として友達でいたかったなぁ」「・・・・・」私は無言であった。「親父もねぇ、祖父もそうだから大学の教授なんか代々しているしね、専攻しているのはね、通称トウテツというやつさ。はっはっは・・・」「哲は哲でも、鉄工業とでも思っておくよ」「そうそう、その調子で頼むよ」私達は全く漫才のような会話を交わした。私に言わせれば、「無知こそが生きる原動力」である。教育ママがこれを読んでいたら、きっと腰を抜かすに違いない。それはそれとして、私は彼が勧めてくれた「仮面の告白」を何回も読んだ。この小説は一人称で書かれた名作であるが、私ははっきりと悟ったことがある。人に生き方も、一人称と三人称があるということである。一人称の人間が、三人称で人生を生きようとすると、それは悲劇とは言わないが、「滑稽」である。ジムに入会し、身体を鍛え、少し良くなってきた頃、ハワイからトーミー・コーノという重量挙げの世界チャンピオンが来日して、都内でデモンストレーションをやったことがあった。東京オリンピックの前の話である。重量挙げには興味がなかったが、コーノ選手はスポーツマンとしての、ミスターユニバースでもあったのだ。白人を押え、日系人がそうしたタイトルを獲得したのは、初めてのことであった。何人かのジムの仲間と共にその場所に向かったが、そこは重量挙げのジムであり、大きな場所ではなかった。初めて見た時は、スウェットシャツを着ていて眼鏡をかけているので、インテリ臭く、とても世界一の怪力の持主には見えなかったが、彼が軽々と約三百キロバーベルを担ぎ、スクワットを初めて見た時は驚いた。そのシャフトは、まるで木の天秤棒のように反り返っていたのである。我と我が身に較べ、仰天するばかりである。しかも表情は柔和であり、重い物を扱っているような顔ではなかった。やがてコーノは、シャツを脱ぎ、裸身となった。そしてポーズをとり始めると、見ている誰もが、本当に驚いた。身体にオイルなど塗っていないので、自然体であるが、それぞれの筋肉が美しく輝いた。大胸筋・二頭膊筋・三角筋・広背筋・腹筋・脹脛・それぞれの存在を誇っていても、必要以上に主張していないところが、なんとも懐しいし、流れるようなポージングが美しい。本格的なボディビルダーを見て、嫌悪感を持つ人の話を聞く事があるが、それとは全く違う美しいものであったし、片言の日本語にも愛嬌がある。力みも悲愴感もない素直な肉体であった。コーノの身体を見てから、私のトレーニングには一段と熱が入った。そして気分を入れ替える為に、渋谷の宮畉笋砲△襯献爐砲眥未Δ茲Δ砲發覆辰拭ここでは後年ミスター日本になった「名塚勇」選手と一緒にトレーニングを行った。すでに胸囲は一メートル十五センチを超え、それなりに筋肉は成長したが、専門的に表現すると、Definition(輪郭)に欠けていた。ある日、私が大鏡の前で裸になっていると、「い身体をしていますね」と声をかける男がいた。迫力のある顔である。その後、美人歌手と結婚した俳優の郷英治であった。・・・まぁとにかく、そういう意味では、一応の目的は達したことになる。一緒にトレーニングをしていた大学生の工藤君は、羨ましい程の筋肉をしていた。柔らかくて、それでいて「ゴム毯」のように張りがある。いわゆる力こぶの上にもう一山あるという完璧な二頭膊筋である。適材適所、向き不向き・・・。という言葉がある。ある西洋の学者が、人間の体系を三種類に分けた。筋骨型(闘士)・肥満型・痩身型である。人間の体は大体この三つに分ける事が出来るという。不思議なもので、長いことその職業に就いていると、その職業に合った身体付きになってくる。私は長い間、自分は「やせ型」であると思い込んでいた。・・・話は少し前に戻るが、後楽園ジムに入って間もなくの頃であった。私は大鏡の目で「この先・・・、こんな細い身体でも筋肉が付くのかな?」と、裸身を眺めていた。
その時、鈴木氏が近くへ寄って来てこう言った。「君、熱心に通ってきているがね、その身体はねぇ、蒲柳質と言うんだ。単なるやせ型ではない、嫌えても筋肉が反応しない肉体なんだよ」
「ほりうしつですか?」初めて聞く言葉である、「黙って座ればピタリと当たる」という言葉があるが、数千人を指導してきたその道の権威が「鍛えても無駄である」と言っているのだ。しかも声が大きく、迫力があり、説得力がある。私もいろいろな本を読んだが、筋肉は鍛えれば必ず逞しくなるし、それなりの効果がある、と書いていた。「つまり蒲柳質と言うのは、もやしのようなものかな。よく時代劇に出てくるだろう。箸より重い物を持ったことのない『殿様』が、あの体型なんだよ。・・・そうだな、野球で言えば、ピッチャーでもなければ、クリーンラップでもない、せいぜい草野球のライトで八番、ライパチ君てやつかな。でも野球ではスコアラーもいるし、いろいろ裏方だってあるじゃないか」場所が後楽園であったせいか、鈴木氏は野球で仮え話を進めた。
その時、一緒にその話を聞いていたのが、前述の石川逸男であった。
「何もあそこまで言わなくともなぁ」 「はっきりと言ってもらって良かったかもしれないよ」 「でも僕が見る限り君は、かなり逞しくなったよ。先生が言うのはボディビルダーにはなれないよ、と言う専門的なことだと思うよ。君は肩幅も広いし、背だって高いじゃないか」
確かに当時の平均身長よりもかなり高かった。「うちの伯父貴が酔うとよく言ってたなぁ。『駕籠に乗る人、担ぐ人。さらにそれまた造る人。』この世の中、それぞれ役廻りがあって、君はやっぱり、駕籠に乗る側の人なんだよ」「だってその・・・」「そうだよ、やっぱり乗る方なんだから、何かその特技があるとか・・・ところで君、何か人にないものを持っているの?」「え・・・え・・・」
私は狼狽した。考えてみれば私には特技などは無かった。そして誇るべき資格のようなものも持ち合わせていなかった。
「はっきり言って、愛想が無いから、商売に向いているとも言えないなぁ…」「全くその通りです。とても商売をやるタイプではありません」「と言って強引に横車を押すような馬力も無いようだし、インテリゲンジャが嫌いなようだし。今から大学ということもないようだし、やっぱり取り敢えず今の内、身体を鍛えておくしかないようだなぁ」
私は石川の暗示にかかったように、もう一度気合いを入れ直して「覚悟」を決めた。専門家が「向いてない」と指摘したにも拘わらず、身体を鍛えようとした。知的な障害があるのに、「学者」になろうとした、ようなものであった。私は気分を変える為に、東横線自由ヶ丘駅近くに新しく出来たジムに通うことにした。直感的に自分に合ってる、と感じたのと気分転換である。それに毎日のように行っていた親友のO君の家が五反田にあったからだ。当時すでに、お洒落な街・自由ヶ丘の雰囲気はあった。ジムは白いマーケットの上に在った。何もかも新しく清潔で、思った通りであった。ある日、風呂に入った時、先に入っていた小柄で色の白い青年と全裸で向き合ったことがあった。ジムの風呂であるから、誰が入ってきてもおかしくない筈なのに、何故か二人共、ちょっと驚いたような表情をした。私は自分の名前を名乗り、「よろしくお願いします」と言う型通りの挨拶をした。その人は「平岡です」と言った。その後何回かジムでトレーニングするようになり、少しずつ話をするようになった。その人はジムのオーナーやコーチからいつも「先生」と呼ばれており、有名な人であるらしかったが、私にはそれが誰であろうと関心のないことであった。
一心不乱と言えば聞こえが良いが、相当険しい顔をして、人を寄せ付けないような感じでバーベルに取り組んでいたようだ。しかし当時のジムと言うのは、バーベルを支える「ラック」が無かった。現在のジムのように、一人で行き、黙々とエキササイズを進める、ということが出来なかった。脚を鍛える「スクワット」と、胸の筋肉を付ける「ベンチプレス」は、どうしても左右二人の支持者が、バーベルを肩に乗せてやったり、胸の上まで持ってやらなければならなかった。どうしても、一緒の時間帯の人の協力が必要であった。後楽園ジムのように、大きい所はともかく、小さい所では特に誰とでも協力しなくてはならない。いずれにしても、当時の人間関係というのは、都会であっても「濃厚」であった。人柄の良いコーチの介在もあり、私達・・・つまり、風呂場で最初に向き合った人とも、ごく自然に会話するようになった。ジムから表通りを眺めていると、その人は奇抜な格好で歩いて来る事があった。白いVネックに派手なバスケットシューズ、当時バスケットシューズで街を闊歩する人は皆無であった。かなり「顔」が広いようで、声を掛ける人も多い。ある時は黒い革ジャンパーに黒いズボン、頭は坊主に近い。行き交う人達も、避けて歩いているようであった。後から知ったのであるが、この頭のスタイルは「クルー・カット」つまり、船員刈りの積りであったらしい。アメリカ映画をよく見ていた私は、それが誰の真似なのかすぐに分かった。前者はヒッチコックが監督した映画、「見知らぬ乗客」のテニス選手に扮したファリー・グレンジャーからヒントを得たもので、後者は「乱暴者」に主演したマーロン・ブランドそのもののコピーであった。誰からも「先生」と呼ばれていた人は、三島由紀夫であった。最初に名乗った名前は本名である。直に三島氏を知っている人に、その話をすると「おかしい?」と言う。若い時から小説を書いていて、壮絶な最期を遂げるあの日まで、骨の髄まで「三島由紀夫」で死んだ筈であるから、他人に本名を名乗るわけがないと言うのである。
私は思う・・・突然、風呂場に入って行った私は、一二センチばかり大きく、かなり大きく感じたので「虚」を突かれたので、思わず本名が出てしまったようだ。生意気盛りの私によって、誰であろうと同じ事であった。その頃の三島由紀夫の知名度は、誰でもが知っている、と言うものではなかった。しかし本格的な読書家の間では「鬼才」あるいわ「天才」の評価もあった。私が名前を知るようになったのは、映画の原作者としてである。「潮騒」や「金閣寺」、特に「美徳のよろめき」は、「よろめき婦人」などと言う、流行語まで出来たが、洋画一辺倒の私は、そうした日本映画を観ていなかった。いずれにしても、終戦後の苦しい時代は、少しずつ遠のきつつあった。映画雑誌でも、対談や評価論でよく三島由紀夫の名前は目にした。そうした雑誌は、寝ながら読んでいるので、通りいっぺんの印象しか無かったが、ある時、戦後になってヨーロッパへ行った事を識り、「ほぅ・・・」と思った事があった。現代と違いその頃は、本当のエリートしか外国には行けなかったのだ。しかしその頃の私は、三島氏の「仮面の告白」のような、人間の内面世界を描いた作品を読んでいないので、映画になり易い小説しか書かない、単なる「Storyeteller」すあるとしか思ってなかった。少し古いが「一粒で二度おいしい」というキャッチコピーがあるが、幸いにも直に話をされて頂いたり、その書いた文章などを読むと、人生を二度も美事に生きた人である、と私は思う。少年時代から小説を書き、「神童」「天才」と称され、三十歳近くまで只管内面的に生きた前半生と、身体を鍛え、剣道で精神の極みを悟り、劇的な最期を遂げたあの日までの後半生である。「誇りとは目に見えるものでなくてはならない」、これは三島由紀夫が言った言葉であるが、丁度筋肉が付き始めて、外の世界に出ようとした時代に私は居合わせたようだ。

彼が急に有名に成り出したのは、大映の映画「空っ風野郎」に主演したあたりからである。その少し前、奇抜な格好で自由が丘の街を歩き、人々の反応を直に見ていたのであった。人生は舞台のようなものである。そこでは名優がホームレスを演じる事がある。彼は映画に出る前、自由が丘の街で、頭の中に何も無いような「男」を演じて、人々の反応を見ていたのだった。正に「カイカン」であった筈だ。それを実際に見ていた私は、正に幸運な男である。夏には「半裸」になって、何の屈託もなく、御神輿を担いでみたい。「裸の似合う普通の男になりたい」これが身体を鍛える原点であったようだ。その「空っ風野郎」という映画は、痛ましくって、照れくさくって、見ていられない種類の映画で、名優「船越英二郎」のプロの演技に霞んでしまったようだ。(英一郎の父) 
私達が急に打ち解けて話すようになったのは、映画の話からであった。とにかく小さなジムである。その日のコースが終わり、コーチを囲んで輪が出来た。自然と映画の話となった。誰かが言い出したのだ。「どうして日本映画って、あんなに暗いんだろう?」 日活の無国籍活劇映画が出現する前だった。カラー映画は純天然色と言っていた。「でも少しずつ変わってきている気もするな。角梨枝子の映画を観たんだけど、舞台が北海道で、白黒映画で無いし、義理も人情も出てこない。カラッとした映画だったなぁ・・・」
私がそう言うと、正面にいた先生(三島氏)がこう言った。「へぇ・・・君、あれ観たの?」 「日本映画ってほとんど観ないんですけど、親戚の姉さん達が一緒で、場所が有楽町のピカデリーで、ロード・ショーだったんで・・・」私は何か言い訳じみたことを言った。「一緒に行った人が新聞小説をずぅっと読んでいたらしく、どんな具合に映画になったのか楽しみだったようです・・・」
「へぇ・・・新聞の連載をね・・・」 後から考えてみると、この辺りから単なる雑談では無く、私の話をよく聞こうとした。それも道理である。「夏子の冒険」は目の前にいた三島由紀夫の初めての新聞小説であったのだ。私はそんなことは知らなかったので、特別に意識するようなこともなく、会話は進んだ。「俺の義姉の姉さんなんですけどね、なにかその作者のファンらしいですよ。映画も良かったんじゃないですか・・・。でもやっぱり、色がテクニカラーに較べると。貧弱ですね」 「いろいろあって、あのフィルムは使えないらしいんだよ」 「でもあの映画に出た若原雅夫って俳優は何となく、シャルル・ボワイエに似てますね」 「君、映画に詳しいんだね」 私がフランスの俳優の名前を出したので、少し驚いたようだ。
この日辺りから何の抵抗もなしに、私は「先生」と呼ぶようになった。先生も気軽に「あべちゃん」と言うようになった。これを読んでいて、少し調子が良過ぎるんじゃないか・・・という思いの人もいると思うが、この頃の三島氏は、決して「超有名人」ではなかった。言うなれば、ブレーク寸前というところであった。つまり「知る人ぞ知る」という存在である。
それにしても、三島氏は、私の描いていた小説家のイメージではなかった。私の作家のイメージは、小学生の頃に有名であった太宰治である。その最後は子供心には、強烈なものであった。人気作家であったので、新聞紙上でよく目にした。何となく全体に陰鬱で常に表情は暗く、人間の悩みを一手に引き受けているような印象であった。しかし私の見た作家、三島由紀夫は違った。表情は明るく、大きな声、大笑い、ジムに現れると、その場の空気が華やいだ。表情が快活さに溢れていた。若いな・・・、と感じたが、その時何歳であったのか、知ろうとも思わなかった。私は小説家や、その作品などに何の関心も無かった。その頃の私は「活力」と「虚無」を両方持っているような、複雑な若者であった。身体を熱心に鍛えていても、コンテストに出るほどでも無く、将来はこうしよう、というような人生の設計図を描く事もなく、しかし極限まで、身体は鍛えたい。矛盾だらけの男であった。

当時の先生の身体も力量も、それほどのものではなく、ベンチプレスは四十キロぐらい、私は九十キロぐらいであった。その後は七十キロ挙げるようになったらしい。私は百二十キロは挙がるようになった。こうした分野に疎い人の為に解説すると、近年の日本人の体位向上は凄まじいものがあり、日本各地のジムにも百五十キロ以上を挙げる若者もいるし、現に茨城県にも二百キロ以上挙げる世界的なパワーリフターもいるようである。脚を鍛える「スクワット」にしても、ベンチプレスにしても、吸う息、そして吐く息が人間の身体に非常に良い影響を与える。というと、単に筋肉にだけである。という印象であるが、判断力やその他の「感」にも、かなり良い結果をもたらす。
ジムのコーチは人柄の良い人で、風呂でよく先生の背中を流していた。ある時、私が身体を洗っていると、コーチに電話が入った。するとコーチは無言で私に、スポンジを手渡した。まるで「それが当然」という顔である。はっきり言って、「何で俺が・・・」という思いであったが。コーチの人柄が「先生」の背中を流させた。ほどなく洗い場に帰って来たので、頭を洗っていた先生が、何も気が付かなかったようだ。
このように具にその身体を見ていた私であったが、それから数年経ての、三島氏の筋肉の変化は本当に驚くべきものがあった。週刊誌を始め、あらゆる所に顔を出し、sの小説などを読んだ事のない人達の口の端に上るようになった。三島由紀夫の十代の作品、初期の文章を理解していた読者達の「困惑」や「痛み」は想像に余りある。私が単純に驚いたのは、新宿の小さな映画館で「優国」という映画を観た時であった。場内は超満員、若い男女が多く、熱気ムンムンという異様な雰囲気であった。誰でも知っているように、青年将校に扮した三島の「切腹」映画である。内容の趣旨はともかく、私はその筋肉の進化に感動した。貧弱な身体からスタートし、普通の青年となり、そして豊かな筋肉を付け、鋭い「切れ」もある。三十歳近くなり、トレーニングを開始した事を考えると、限界まで鍛え上げた事になる。緑が丘から大田区南馬込に転居して、コロニアル様式風の豪邸を構え、名声は上がり、すでにその発言の影響力は多大なものがあった。
相前後して三島氏は、大学生を中心とした私兵「楯の会」を組織した。制服正帽で身を固めたメンバーをマスコミは「オモチャの兵隊」と揶揄した。そして隊長、三島由紀夫氏は皇居に近い国立劇場の屋上で、堂々の「閲兵式」を行った。「頭中」、そして方向は完全に「右向け右」となってしまった。もう誰にも止める事の出来ないものであった。そして遂に、一九七〇年(昭和四十五年)十一月二十五日、愛力「閲の孫六」を手に、自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、憂国の演説をした後、その美学の最終章を飾るのであるが、私の所有している実況「ソノミート」を聴いていると、難解な部分もあるが、納得もする。それにしても明るみになった、防衛省の腐敗ぶりに腹が立つ。関係者に三島氏の「爪の垢」でも煎じて呑ませたいものである。
話は再度戻る事になるが、結局自由が丘ジムは経営が立ち往かず、閉鎖することになった。東京オリンピックの大分前の話である。やはり、時期早尚であったらしい。オーナーはバーベルを処分する事になり、その中でも一番綺麗な四十キロ一組を、私は購入した。価格は半額であった。当時新品は相当高かった。なんとこのバーベルは、今も私の手許にあるのだ。器具が総てとり払われたジムの中で、オーナーはこう言った。「君と三島先生はよくこのバーベルを持っていたね」 「時間帯が丁度合っていたようですね」 前述したように、当時はベンチにラックがついていなかった。バーベルを支えるフックである。三島氏がベンチプレスをやる時は、私が胸の上の、両腕が伸ばし切った所まで挙げてやって「一回、二回・・・」という具合に、カウントしていた。
私が行う時は、その倍もある重いバーベルを他のメンバーと共に左右に分かれて持ち上げ、先生が数える時もあった。
「1,2,3,4・・・」十回を一区切りとしていた。考えてみれば、畏れ多い話であるが、その時は特別何も感じなかった。
都合・・・。三か所のジムへ通った私であるが、アルバイトをやる都合もあり、自分の家で、つまり「ホーム・ジム」で身体を鍛え続ける事にした。幸い庭の部分がコンクリートであるので、凹凸もなく器具の安定も取れたが、かなり狭い場所である。脚の部分を鍛える時は左右両方の脚台の上に一度バーベルを置く、これは鉄工所に特別なものを造ってもらった。胸を鍛えるベンチは漸くラック付のものが市販されるようになった。バーベルとダンベルは、全部で百五十キロぐらいになった。自宅で出来る事の利点は、早朝でも好きな時間にトレーニングが出来る点であるが、すでに百キロ以上のものを使用しているので、「気合」を入れてやる必要がある。外国では百二十キロ余りのバーバルを喉に落下させ、死亡した例があると、専門誌で伝えていた。
疲れて帰って来た場合など、自身を奮い起こして頑張る事は辛い事であった。すべての「物事」を、自分でコントロールして進行する。これが何事によらず、一番簡単で一番難しいことである。と、私は考える。
そこで私は自分自身に一つの課題を与えた。「絶対に前回よりも、軽い重量で行わない、回数も減らさない、少なくとも同じ重さのバーバルを使用する」
これを守る為には、常に節制して、十分に睡眠を摂り、何よりも食事面の栄養に気を付けなくてはならない。何事によらず、「向上」しようとしたら、地道な事を毎日、繰り返すしか無い。この世に特効薬など存在しない。それと忘れてならないのは、「努力と結果は必ずしも一致しない」という事である。私はこうして日々努力していたが、何も特別な「成果」を求めていた訳では無い。
こうした日々であったが、時に面白い事もあった。家に風呂はあったが、時々「銭湯」に気晴らしに出かけた。混雑する前である。銭湯の大鏡の前で、鍛えた筋肉がどう進化したのか、観察するのは嫌いで無かった。ボディビルを好まない人は、この「narcissism(自己陶酔)」が、どうにも気に食わないらしい。
当時の日本人の身体は小さく、ボディビルという言葉は誰でも知っていたが、具体的にどのようにバーベルで鍛えるのか?知っている人は殆どいなかった。私の行く時間はリタイヤした人か、商店の主人が多かった。必ず声を掛けられた。すでに胸囲は百二十センチはあった。
「ほぅ・・・いい身体をしてまいすね」 全く知らない人からのこの一言が、何より励みになるのだ。
「いや、それほどでも無いですよ」と言ってt、然り気なく胸の筋肉をピクピク動かす。これは、マッスル・コントロールという。
「ほぅ・・・」全く以て子供と同じようなものである。ここまではいつもと同じようなパターンであるが、ある日私は思い掛けない一言を投げ掛けられた。その初老の男は、私の身体をしげしげと見ながら、それこそ感に堪えないような声で「さぞかし美味いもの食べているんでしょうね・・・」と言ったのだ。それこそ絞り出すような声であった。私は思わず、仰け反りそうになった。確かに私は彼が言うように、過剰なほどに蛋白質を摂っていた。ホームジムで一人頑張るつもりであったが、いつの間にか近所の若者達が加わり、数人でやるようになっていた。見えない場所でやっていたのだが・・・。人が寄ってくる時とは、そうしたものである。その内の一人、T君は身長は百七十六センチ、体重は七十キロ近く、腹筋もあった。力は初めからあった。なんと未だ中学生であると言う。
ここまでなら、それ程驚く話では無い。私が仰天したのはその身体の柔らかさであった。脚を投げ出させ、背中から押すと、頭はピタリと脚に着くではないか。そこで思い切り開脚させ、背中を押してみた。殆どの人間は、少し押すと「痛い」と言い出す。尚も押して往くと、胸はビタリと地面に着き、顔は少しも苦しそうではない。ピタリ・ピタリ、全く無理をしている様子は無い。こんな少年は初めてであった。力は恐ろしい程の速さで強くなった。正に「柔軟で強靭」である。私は本気でT君にプロレスラーに成ってみる気は無いか?言ってみた。
残念ながら、レスラーにはならなかったが、トレーニングは続けていた。無我夢中でやってきたトレーニングであったが、七年ばかり経過して、自分の限界のようなものを感じ始めた。
そうした時、歩いて行ける所に新宿区の体育館が出来た。夜は柔道もやると言う。私はそうしたものを一度もやった事が無かった。下見に行くと、畳も新しく清潔で素晴らしい道場である。
柔道に転向する気など無かったが、何か身体を鍛え直す「きっかけ」のようなものが欲しかった。今の言葉で言えば、リセットである。柔道着を購入して、裸になって着替えていると、数人の
先輩達は「全日本クラスの身体である」と言ってくれた。受け身、その他の基本的な練習が何回か続いた後に「乱取り」に入った。
指導者は講道館七段「小泉先生」である。六十歳ぐらいで、中背の人である。私の力を試すように、押す力、引く力を数分間計っていたようである。「ようし、どっからでもいいから、どんな方法でも良いから、私を倒してみなさい」
何も知らない訳だから、当然、力任せで何とかしようとする。「ほぅ、凄い力だなぁ。柔道では一年で三段を取る事は出来ないが、例えて言えば、その位の力はある」
私が少し気分良く前へ出たその瞬間である。「アッ」と言う間も無く、私の身体は見事に宙に舞った。起き上ったその途端、「足払い」で倒された。「ようし」と気合を入れたその時、再び身体は宙に舞った。受け身だけはやっていたので、身体にダメージは無かった。・・・結局、私は数か月で柔道は辞めたが、貴重な体験であった。その当時の柔道選手は、余りバーベル等は使っていなかったが、重量級で世界チャンピオンになった「I選手」は、かなりやっていたようで、アメリカの専門誌に掲載されたのを見たことがある。I選手が世界チャンピオンになる前の話であるが、街を歩いていた見掛けた私の知人が余りにも立派な身体なので「君、ボディビルをやってみたらどうかね」と言うから、笑っちゃう話である。私も関心を抱いていた人であったが、最後は悲劇的なことになってしまい、残念である。

こうして述べていくと、全く遊び心の余地の無い青春時代を過ごしたようであるが、毎年夏は、横須賀市の秋谷海岸でそれなりに楽しんだ。友人の家が品川区で会社を経営しており、自社の為と、取引先の接待用に、寮のような大きな「海の家」を借りていた。土曜・日曜は賑わうが、ウィークデーは誰も居ないので、一応「留守番」を兼ねた用心棒のようなものである。当時はのんびりした時代ではあったが、多少の仕事もあった。その仕事さえ済んでしまえば、羽を伸ばしても良いのである。ある朝のこと、ひと泳ぎをして十人ばかりの若い仲間と共に海辺を歩いていると、白人もいる華やかなグループに遭遇した。その中の一人の青年を中心にして、輪を作っている感じである。尚も近づくと、その青年が素晴らしい身体をしているのが分かった。逞しい、というより美しい筋肉である。するとその美青年が、思いがけない言葉を発したのであった。
「阿部さんじゃないですか・・・」
あっと、私は思った。ミスター日本の名塚進君であった。数年前に渋谷のジムで一緒に汗を流した仲間である。然もありなん、とはこういうことか。素晴らしい筈であった。どちらかといえば、ビルダーから俳優に転向した、スチーブ・リーブスのタイプの美しい筋肉であった。
夏の海の家の土曜日は、開放感に溢れて、それは楽しいものであった。テレビはあったが映りも悪く、楽しいものではなかった。「歌声喫茶」などが人気のあった頃なので、大広間に歌にゲームにと、大いに盛り上がった。殆どの人が初めて会ったばかりであったが、人と人との濃い一時というものが、確かに存在した。高度成長期に入る前には、そうした目に見えない「空気」というものがあった。
・・・・・・その夜は東京から十人ばかりの大学生達が、それぞれペアで宿泊した。W大とM大であるという。一通りの遊びの後、二人の学生達から「腕相撲」と、「相撲」に挑戦された。腕相撲は何処でも出来るが、相撲の方は室内では出来ない。と思っていたところ、彼等は昼の内から海辺でロープを拾ってきており、即席の土俵を造り、廻しは太めのバンドを用意していた。
私は気が付かなかったが、彼等はその前の週にも来ており、ボディビルで鍛えた男の力がどの程度のものなのか?機会を窺っていたようだ。腕相撲のA君も、相撲のB君も「今まで一度も負けた事が無い」と豪語する。大学には相撲部もあり、そうしたクラスにも負けないという意味なのか、普通の人には負けない、という意味なのか・・・。
いずれにしても、夫夫がガールフレンドと一緒であり、「いいところ」を見せたいのであった。すでに私はトレーニングを開始して七年以上過ぎており、それとなく大学生の身体付きを見て、その力の程を推し計った。私の腕相撲の力は、労働者二人がかりとやっても、負けなかったし、ベンチプレスは百キロ以上・・・。そう簡単に負けない。と思っていたが、相撲に関しては全く何の関心もなかったし、少しの自身も無かった。先ずは相撲から始めると言う。行司は腕相撲で対戦するA君である。軍配は手製で、ガールフレンドが工夫したようである。改めて相手を観察すると、上半身は普通であるが、太股に張りがあり、ふくらはぎは特に逞しい。私の身体というのは、上半身に較べると、特にふくらはぎが細いのである。女性なら嬉しい事であるが、男性の身体としては何とも頼りない。私が自分の肉体で最も嫌いな部分であった。こうして秋谷海岸、「お座敷特別場所」は始まった。その時、剽軽な小学生が台所から塩の入った壺を持って来たので、座敷の観客から笑いが起こった。相手の学生は明らかに相撲に馴れており、大学ではともかく、高校あたりでは相当やっていた本格的な立ち振る舞いである。両者・・・、気分も充分に立ち上がり、がっぷりと四つになり相手のバンドを掴んだ時、腰に独特の粘りを感じた。・・・こいつは本格的な相撲の稽古をした事があるな、と悟った。しかし負ける訳には往かない。私が土俵際まで押すと、相手が押し返す。投げようとしても、想像以上の腰の安定感である。二人の攻め技合い、凌ぎ合いは続いた。「水、水、水入り・・・」などと言う声も聞こえた。
・・・しかし何とか、右上手捻りのような形で辛勝した。やはり技を知らないので、一種の力勝ちであった。座敷は思わぬ大熱戦で、大いに沸いた。大学生はかなり自信があったのか、残念そうであった。今度は「腕相撲」であると言う。私はもういいんじゃないの・・・、と言ったのであるが、何しろガールフレンドの手前、六大学の誇りもあるらしい。相撲と違い、今度は些かの自身もある。しかし大学生は「どうしてもやる」と言う。その時、相撲の大熱戦からか・・・夕方少し呑んだビールが利いてきた。アルコールには弱い方であった。だが、自信のある種目である。何の気負いも無く、腕相撲に臨んだ。表現を変えれば、気合いが入って無かった。相撲と違い、座敷中の人が二人を取り囲んだ。始まってすぐに、私は自分の甘さに気が付いた。私は机のような大を利用して、やるのだとばかり思っていた。畳の上に身体を投げ出してやる腕相撲は初めてだった。想定外の握力である。「強い」と感じた。結論を先に言えば、私は大熱戦の末に負けたのだ。敗因を分析すればこうなる。一、相手を少し見縊った。二、腕が身体より離れすぎた。
しかし、実を言うと、敗因は他にもあった。彼らのガールフレンドが、美しい脚を投げ出して見ていた事であった。故意でも作戦でも無く、偶然であったようであるが・・・。一勝一敗、丁度よい結果であった。全力を出し合い戦った若者同士、その夜は全員が輪に成って大いに語り合った。私が少し年上であったので、自然と中心と成って往った。空襲の話もしたが、私は小学生の時、長兄と共に式に参列した貴重な体験を話した。「そんなことがあったんですか」と言う、驚きの反応があった。兄は当時、政経学部の学生であった。先輩の斉藤氏が、政経学部の「以上総代」として卒業証書を受け取る為、登壇するという。それは大変な名誉のことであり、そうした先輩を持った事は兄の誇りであったのだ。その晴れ舞台を小学生の私に是非見せておきたかったようだ。兄は当初T大学を志望して、二浪してW大学へ入学した経緯があった。斉藤氏は戦争の為にそれ以上の廻り道をして、卒業の日を迎えたのであった。すでに一流会社への就職も決定している、という。人間的にも尊敬していることは、兄の言葉の端々から感じられた。厳粛な式を私は緊張感を持って見守った。そして「以上総代斉藤某」と、総長が読み上げるのを聞いた。
当時は卒業式であるからと言って、郷里から簡単に東京に出て来れる時代で無く、斉藤氏は私達兄弟の出席を本当に嬉しく感心したらしく、是非お茶の水の寄宿先で「自分の炊くご飯を食べてくれ」と言う。郷里の北海道から鮭が届いていて、ご飯には自信があると言う。このことにも注釈するが、当時は米は貴重品で、その訪問先でご飯を食べるのは相当に不遠慮な事であった。どうも斉藤氏は、小学生の私に郷里の弟を想い出したらしい。戦争に赴き復員し、再度学び舎に復帰した事は、大変な喜びであったようだ。斉藤氏の一間の部屋は恐らく四畳半であったと思う。家具らしいものは無く、勉強机などは無かった。しかし難しそうな本はかなりあった。みかん箱のようなものを机代わりにしていたのか・・・。卓袱台だけはあった。子供の私は物珍しさを感じ、兄は恵まれ過ぎている自分の環境に多分、気恥ずかしさを感じた筈である。大人に成って考えると、戦争を体験したその人の勉強振りは「日々真剣勝負」で、命懸けであったと思う。当時・・・そういう大学生は間違いなく存在した。

「自信がある」と言っただけに、ふっくらと炊き上がったそのご飯は、鮭と共に、それは美味しいものであった。一杯・二杯・三杯・・・と進められる儘に私はお代わりをした。斉藤氏と兄との歓談は進み、「さてそろそろ・・・」と腰を上げようとした時、私は立てなくなってしまったのだ。なんということか、私は食べ過ぎて動けなくなってしまったのだった。生意気にも銀座あたりの高級レストランの味を知っていた子供であったが、斉藤氏のご飯は本当に美味しかった。兄は私の醜態に恐縮し切っている。これが本当の愚弟である。勿論・・・今だから言える事がある。「う・・・ふ・・・」と、私は約二時間唸り続けた。
私はその時、兄と斉藤氏が交わした話が忘れられない。
「そんなに旨かったんですかね。自信を持っていいのか、申し訳が無いような・・・」
「なにしろ子供ですから・・・」
「ところで阿部さん、人間が飯を食べ過ぎると、どうなると思いますか?」
「どうなるんですか、斉藤さん?」
「これは戦争が始まる前の太平楽なことなんですが、ある男が食べ過ぎましてね。なんと、腹では無く、背中から割れて、その・・・」
斉藤氏は「死んでしまった」という言葉を呑み込んだ。なんとか私は、約二時間経て立ち上がる事が出来た。幸いにも嘔吐する事も無く、それ以上の失態もなく・・・。子供とはいえ、馬鹿にも程がある。

この話は、その夜の大学生達に「うけた、うけた」 何人かは転げ廻って笑っていた。本当の話を素直に話したせいなのか・・・。スピーチなどには、TPOという言葉があるが、私はさ更に“A”を加えたい。「atmosphere(雰囲気)」である。人間は感情の動物であるから、その場の空気や、気の持ち方で、どうにでもなるものらしい。
夏の楽しい日々が終わり、留守番の仕事も無くなり、私は真っ黒に日焼けして東京へ帰った。横須賀の海で知り合った二人ばかりの女性と、東京へ帰ってからも食事や映画に行ったりした。
一人は丸の内のOLで、一人は銀座の喫茶店の店員で、まだ十代であった。しかしその年の内に、、双方共に自然消滅の形で終わった。その頃の母の知人S氏から、レストランを開店するので、手を貸して欲しいとの話があった。山手線田町駅から慶応大学の方向に行くと、慶応中通りという、狭い歩行道路があり、そこに餃子とラーメンの店を出すのだが、「中華レストラン」という当時としては斬新なアイディアであった。売りは当然「味」であるが、清潔さと入り易さを強調したもので、当時としては目新しいオープンキッチンである。チーフコックは、S氏の親戚筋の人で、新橋の一流店にいたNさんであった。開店前に調べた慶応中通りの朝夕の人の流れと言うものは、それは凄いものであった。話を聞いたり、実際に現場を見たりして、「これは当たるのではないか」という気がした。Nさんもまだ若く、自分がチーフでやる事に意欲を見せている。料理の素人の私が、何をやれば良いのか?と聞いたところ、売りの一つである「餃子」をやってくれと言う。
「え・・・?」と思ったが、具はNさんが調合して、生地も作り、その記事を小さな麺棒で薄く伸ばし、形よく具を包み、それを鉄鍋で焼くのが私の仕事であると言う。出来る・出来ないではない。それをやるしかない状況であった。S氏とは子供の頃から知っている間柄であり、やってみよう。と気が起こり、開店に間に合うべく特訓を受けた。特訓の成果もあり、何とか「サマ」に成り、開店の運びとなった。
中華レストラン「慶稚」の滑り出しは、正に順調そのものであった。ラーメン・タンメンはNさんの弟、酢豚・カニ玉・手の込んだ物はNさん、Sさんの奥さんがレジをやり、女店員が二名。問題は即席の「焼き方」の私である。客から見えるガラス張りの所でやるのだが、特訓の成果もあり、これが意外にも上手く往ったのである。開店一週間ばかりは大入り満員、行列の出来る有様であった。毎日のように餃子を食べる客もいた。すでに自分の家で五年ばかり餃子を作って食べていると言う。そうした客と面白い会話があった。
「自分で具から作ってやっているんだけど、こんなに美味く出来ないな・・・」
「まぁ、商売ですから」
「どこが違うのかな?」
「それは火力ですよ。家庭用と業務用とは、火力が根本的に違うんですよ」
「いや、それだけじゃ無いな。やはり経験と言うか、場数だな。ところで、兄さんは今まで何処の店で、何年ぐらいやっていたの?」
傍でそのやり取りを見ていたNさんがニヤニヤとしている。
「そうですね、中学出てすぐに横浜とか新橋とか・・・かれこれ・・・」
「う〜ん、やっぱりなぁ・・・」

私もNさんも笑いを噛み殺した。
真逆か、ずぶの素人で初めて10科ばかりとも言えず、何事にもそうした「もの」というものがあるようである。味が良かったのは、Nさんの具の調合と、包む皮の材料が良かったからである。
Nさんは芸能人や、そうした人達に縁があるようで、当時「黒い花びら」で大ヒットした歌手 水原弘とは呑み友達である事を話していた。ある日のこと、若くて美しい二人連れの女性が店へ入ってきた。Nさんが私に目で合図をしている。その目はこう言っている。「見てみろ、すごい美人だぞ」確かに普通のレベルでは無い。輝きと知的な存在感がある。二人は焼き飯とラーメンを注文した。腕に自信のあるNさん兄弟は楽しそうである。その時、餃子の追加注文があった。私には美人を見ている余裕が無い。・・・やがて二人は、笑顔を残して店を出て行った。
「いや、驚いたなぁ。女優の黒柳徹子だよ。もう一人も、名前は知らないが、見た顔だなぁ」
後で知ったのだが、近くにNHKの演技研究所があったらしい。
約二月が経過する頃から、オーナーのS氏の渋い顔が目立つようになった。確かに事前リサーチしたように、朝と夕方の人の流れは良く調べた。しかし夕食時の人の流れというものを、全く把握していなかった。夜の閑古鳥が鳴きやまず、僅か二ヶ月で、中華レストラン「慶稚」は、ついに閉店する事になった。腕に自信のあるNさんと弟は、むしろニコニコして出て行った。私は
何処の店で・・・などは考えられなかった。オーナーの親戚筋の、Nさんの下でしか働けない素人である。

前にも述べたように、私は自宅の庭でトレーニングを続けていたような状態であったが、その頃は関西出身の寺坂君や、その他にも数人はいた。寺坂君は私より年上で、ボディビルをやる為に上京したのであるが、私とは渋谷のジムで自然と友人になった。その当時はかなり貧弱な身体をしていた。話を聞くと、非常に条件の悪い所で働いていたので、私が品川にある友人のやっている会社に紹介したのである。しかし、仕事が合わないようで、レストランが閉店したその頃は、私の家の近くの水道工事会社では働いていた。話を聞くと、朝が早く、昼休みは短く、時として夜まで働く事があるようであるが、むしろ喜喜として頑張っていた。更にその上、私のホームジムでのトレーニングである。こういう風に書いて来ると、彼が現場の仕事しか出来ないようであるが、実は彼は関西の立命館大学の出身で、地元では当然事務職をしていたのであったが、会社でのデスクワーク等に発する駆け引きや、繊細な神経を使うことの苦手なタイプであり、上京を機に心機一転して、ことさらつらい肉体労働を求めて生きている。そうした青年であった。彼の態度物腰は、極めて真面目であり、常に自己鍛練の日々のように見えた。初めて渋谷のジムで私が彼を見た時、黙々とヒンズースクワットをやっていたのを思い出す。それを見ていたコーチの平松氏が「何か宗教的ですなぁ」と言ったのが印象に残っている。彼はまるで修行僧のように、身を律して身体を鍛え、数年して力も付き、まるで別人のように逞しくなった。
私の家に出入りするようになり、自然に母の手料理で食事するようになり、・・・その後、我が家と親戚同様の娘と結婚することになる。

そうした日々のこと、彼が会社の現場の仕事が忙しく、「何とか手伝ってくれないか」と言い出した。私は水道工事業の現場の内容など全く知らなかったが、アルバイトでいいなら…という条件付きで手伝う事になった。仕事の内容は、コンクリート等の硬い所に穴を開ける削岩である。通商「ハツリ屋」と言うが、正式に何と言うか知らない。現在では当然、削岩機でやるのであろうが、その頃は単純な力仕事であった。しかし力だけでは通用しない。「コツ」のようなものもあった。馴れない作業であっても、足場が安定している地上であれば、特別問題も無い。頑張って、汗をかけば済む事であった。・・・少し要領の分かってきた頃のことである。
新橋に近い田村町のビルの工事現場へ連れて行かれた事があった。その仕事は、八階の屋上から一度表へ出て、外側から穴を開ける仕事であった。当然そうした仕事は熟練工がやる事であるが、手配が付かなかったようだ。私は高所恐怖症ではないが、特別好きな所でも無い。(当たり前だ) 
その場所へ接近するのには、ゆらゆら揺れる足場板を通って進まなければ無い。しかもその最中には塗装業者がペンキを塗っている。その背中を通り抜けなければならない。私の左手には鉄のミノがあり、右手には小振りではあるが、鉄のハンマーがある。そうした状態であった。改めて現場を見ると、そうした塗装業者の後をバケツにセメントらしき物を入れた左官業者が、その後ろを軽い足取りで過ぎて行く。私の見た限りでは、ヘルメットを被っている者はいない。何しろ、この話は東京オリンピックの前の話であり、現行の話で無い。その時同行した人も、そうした場所の専門家では無いと言う。
「仕方あんめい、その時はその時だ」私あその男に付いて行き、何とか現場に着き、その日のノルマを達成した。とにかく初めての経験であり、私は「快適では無い汗」とたっぷりとかいた。
後から考えてみると、人間の成長は汗と共にあるような気がする。肝を冷やす「冷や肝」、苦境に陥った時の「脂汗」、・・・。一番楽しいのが、快適のスポーツ等で流す「爽やかな汗」であるが、流した汗で人生観は違ってくる。
一段高い場所から聴衆を前に「皆さん、私と一緒に汗をかきましょう」そうした類の音頭を取る人は、快適な汗しかかいた事の無い人が多い。勿論・・・例外はある。しかし、躓きの経験の無い人の言葉には重みが無い。スポーツや武道でかいた汗は貴重なものであるが、しかしそうしたものには、少なくとも「一定のルール」が存在する。不条理にかいた汗程、後々必ず役に立つ。
ただし、人を納得させるには、それなりの理論を要すが・・・。少し前のことであるが、三Kという言葉があった。これを読んでいて、「ややキツイ」があっても、「臭いや汚い」が出て来ない。
これから書く事は実は躊躇いがあった。しかしこれは小説では無いのだ。体裁良くまとめても意味が無い。

私は水道工事業というものは、小道というイメージから、そんなに汚れる仕事では無い、と勝手に思い込んでいた。それにしても、知らないと言う事は恐ろしい。私が手伝っていた時代と言うのは、東京都内でも汲み取り式の便所というものが多かった。そうした古い形式のものを新しく水洗式の快適なトイレに切り替える、過度期でもあった。日本語の言葉の持つイメージとは、不思議なものである。同じ「こと」を言っているのに、便所とトイレとはまるで違う。
その日、出発前に事務所で班長にこう言われた。「今日の仕事はちょっとキツイぞ・・・」「もう馴れたから大丈夫ですよ」、私は気軽に答えた。「何しろ猫の手も借りたい位だから、頑張ってくれよ」そう言いながら、私に新しい長靴を差し出した。軍手はともかく、そうしたものを支給されたのは初めてだった。その日トラックで着いた現場は、板橋の外れにある工場と事務所が併設している、中規模の会社であった。作業開始の時、私は内心「アッ」と思った。それは数十年間に亘り、その会社の人達が使用した、便曹と便器の取り替え作業であった。その後、流行したギャグで言えば「聞いてないよ〜」と、口を尖らして不平顔で訴える場面である。しかし引き返す訳にも行かない。今まで使用していた物を、完全に取り外し、そして新しい用品を設置する。どんな分野の仕事であっても、それが原則である。当然「汚物」はすでに無かったが、残っていた物があった。それは強烈な「匂い」であった。その場所に、その地面に染み付いた数十年の匂いというものは、消えるものでは無く、汚物は昨日までそこにあったのだ。その時、気付いたのであるが、意外にも「大」よりも「小」の方が強烈である、という事であった。その日の息の詰まるような苦しい作業は、全員の協力で終了した。こういう時は、何も考えないのが最良の方法である。「無我」に徹する事である。現在ではどの分野でも、分業であるので、そういう作業は無いと思う。そうした辛い作業は、流石に毎日あるわけでは無い。毎日の仕事と言うのは、「水が止まらない」「庭の排水管を見てくれ」と言った、いわゆる街の水道屋さんの仕事である。その職場には、福島県出身で、「飯村さん」という四歳ばかり年上の人がいた。単純な力仕事で彼に立ったのか・・・この人はどういう訳か、私に好意的であった。簡単な仕事にも、私に同行させる。どうやら少しでも楽な仕事をさせてやろう、という配慮らしい。危なくもなく、きつくもなく、臭くもない。こういう仕事は天気の良い日には鼻唄まじりの気分である。やわらかい午後の陽だまりの中、気さくなおかみさんに入れてもらったお茶で、弁当を食べる。何となく「働く意欲」も自然と沸くものである。飯村さんには馴染みの客が多い。そのやり取りから、彼の生い立ちなども私にも分かってきた。その頃には、職人と客との間では、都会であっても、ゆったりとした時間があった。

彼の年代と言うのは、いわゆる「集団就職」で上京した人達の前の世代であった。世の中は安定せず、人余り時代であった。出身地の農村地域では仕事も無く、「東京へ行けば何とかなる」という、見切り発車の状況であった。と言う。学歴も無く、コネも無く、都会で活用出来る特技も無く、「とにかく喰うため(正確に言えば、口べらし)」の為に何でもする気で東京へ来た、と然り気無く話す。母と二人、持ち家で暮らし、弁当を作ってもらって職場へ通っている私は、何となく後ろめたい気分に陥った。彼のような実体験の無い私であっても、辛い状況や立場は十分、理解出来た。現在の若者の中には食べられない、と言う事が全く理解出来ない人がいるようだ。・・・数回の転職の後、現在の「水道屋」に落ち着いたらしい。「やっぱりこの手だなぁ。人の嫌がる仕事を進んでやる。喰う為には、これしかねぇなぁ。この手で掴み取らねぇとなぁ。」
そう言って彼はその節くれだった手の掌を私の目に付き出した。それから間もなく、本当に「その手」に驚く事になるのだが・・・。いずれにしても、こういう人の前には、全ての高尚な理論などでは虚しい「机上の空論」になってしまう。間もなく、同じ東北出身の女性と結婚すると、嬉しそうに言った。「俺に言わせりゃ、いろいろ選べるっちゅうのは、やっぱり贅沢だよ」、私の顔を見るでもなく彼はそう言った。「選ぶとは?仕事ですか?嫁さんですか?・・・」と聞こうと思ったが、私は口を噤んだ。
仕事が慣れて来ると、当時の街の水道屋さんには日給の他に「ヨロク(臨時収入)」がある事を知る。それは通称「アカ」と呼ばれているものであった。その頃は戦前に使用されていた、鋼で出来ていた鉛管が耐用年数からして切り替え時期に来ていた。特に水道管のカーブの部分は、エルボーと呼ばれて破損する事が多く、新しく出現したビニール管に替えるのである。ビニール管の出現は、画期的なものであった。軽い・仕入れ価格が安い・持ち運びに便利である。使えなくなった古い部分は客の物であっても、それを置いて行けと言う客は居ない。職人はその「アカ」を、古物商に持ち込み現金化する。そうした行為は、会社側も十分知っているが、咎める事は無い。何故ならそこまで厳格にすると、「残業時間」や「早朝時間」等で、必ず不満が生じからである。職人にとって、アカの金は、決してバカに出来ない。時として、日給以上の稼ぎとなる。そうした仕事にまつわる「ヨロク」と言うものは、どの職業にもあるようである。
その日は珍しく早く帰れる事になった。事務所を出ようとすると、飯村さんに声を掛けられた。「阿部さん、ちょっと手を貸してくれないかな」
場所を聞くと、帰り道の方向である。「お得意さんなんだけど、何かはっきりしないんだ」一度上がって(着替えて)からの仕事は、誰もが嫌がるから。「請負作業」となる。何かしらの材料費を会社へ納めれば、全額が職人の収入となる。自転車で後をついて行ったその家は、門構えの立派な家であった。飯村さんが台所から声を掛けると、待ちかねたその家の三十代後半の女性は、何故か私には、その場にいるように言う。「多分あのベテランさん一人で大丈夫よ」ふくよかで艶然とした人であったが、何か作り笑顔が形心地無かった。「出来ればお兄ちゃんには帰って欲しいの」とでも言いたげである。他人が家へ入って来て困る事、それは乱雑な部屋である。早く帰りたい私は「ありがたい」と思った。それにしても一言、「お先に・・・」ぐらいは言わないとならない。と思っていると、「大丈夫よ、心配しないで。私が上手く言っとくから」
そこまで言うなら…と思って帰りかけると、「何やっているんだよ、早くスパットと庭いじりのスコップと、バケツを持って来てくれ」と言う声が、内から聞こえた。女性は飯村さんのその声を聞くと、複雑で困惑した表情を私に向けた。道具を用意して家へ入って行くと、それは当時まだ珍しかった様式のトイレであった。
その便器が詰まってしまったのである。すでに便器の蓋も閉まらない程の、大量の排泄物の「山」であった。「何しろ家じゃ女ばかり四人でしょう。皆、外へ出ているし、男手が無いし、どうしようと思っている内に、とうとう一週間が経っちまったのよ」
声の調子がまるで違う。もう女性は開き直っていた。確かにこうした「副産物」は、絶対に他人には見せたくない。特に私のようなアルバイトの若い男には…。
私はバケツを置いて、その場を逃げ出したくなった。目に焼きついた光景も去る事ながら、やはり何とも形容し難い「匂い」であった。・・・不思議な事に、それは「悪臭」では無かった。
飯村さんはその固形物を、小型スコップを使って、新聞紙を敷いたバケツに移し始めた。「出もの腫れもの仕方がねぇか・・・」何かこと更に軽い調子である。私は無表情でそれを見ているしか「手」が無かった。次に彼はスパットで残った残留物を押し始めたが、尖端のゴムの部分を使っても、棒状であるので、カーブの部分には役に立たない。その先に障害物があるのだ。「おい、ちょっと俺のシャツを出来るだけ上へたくし上げてくれ」私は言われるままに、シャツを腕の付け根まで彼のシャツを捲り上げた。「まさかそこまで・・・」、心の中で私は呟いた。すると彼は、何のためらいも無く、汚物の中に手を入れた。その家の女性は表情を硬くして、その様子を見ていた。
こうして問題は解決した。しかし彼の請求した「作業代」は、高くなく妥当なものであった。庭に出て私は、彼の腕へホースを使い、水を掛けた。・・・ここまでやれば、客の心は動かない。
女性は出てきて、二人に封筒に入れたものを差し出した。「いいえ、僕は見ていただけですから・・・」と言ったのであるが、後で開けてみると驚く程の額が入っていた。

ほどなくして私は、そのアルバイトは辞めた。こう述べると、誤解されそうであるが、そうした「キツイ」事があったので辞めたのでは無い。期間的にそうした約束であったのだ。自分には他に合う仕事があるのではないか・・・。と、なんとなく考えていたが、それが何であるのかは、自分でも分からなかった。
前述したように、その頃、私は住んでいた所は新宿区西大久保3丁目である。山手線で言うと、新宿の隣の新大久保になる。駅までは歩いて行ける距離であった。新宿の繁華街には良く出掛けた。ある日の事、「風月堂(大きくて有名な喫茶店)」で、高校時代の友人と待ち合わせていると、「阿部様」という呼び出しがあった。私が立ち上がると、若い女性が出てきて、「安部公房様ですか?」と言い出したので、笑ってしまったことがあった。多分、出版関係の人だと思うが・・・有名作家の顔をよく知らないとは・・・どうかしている。前述したように、母と一緒に住んでいたのだが、二人とも、伊勢丹のファンであった。と、言っても、渋谷にいた頃のように、贅沢などは出来なかったが、それでも「デパ地下」で、少しばかり高級な食材を求める事があった。
新宿からの帰り、明治通りでバスを下り、大久保通りを駅方面へ少し曲がって右側に小さな空き地があり、そこにあるバーベルで若い人達が持ち上げたりしていたので、早速声を掛け、私のジムでトレーニングをする事になった。その中心は「平岩兄弟」であった。彼等とは年齢も近く、会話のペースが合い、忽ち友人となった。彼等の仕事は、東京でも数少なく熟練を用する内容なので、何よりも力を要するので、一に力、二に力、三四が無くて、五に力、であると言う。今時、そういう力が必要な仕事があるのか?と少し不思議な気がした。しかし必ず家の中に入って仕事をするので、在宅中の奥様方の目から見て「荒々しい感じの人」は向いてないと言う。従って、誰でも良いから雇い入れる訳にも行かず、兄弟が中心になって仕事をこなしている、と言う。私は「ふぅん・・・」と言う、軽い気持ちで聞いていたが、どうしても「力が必要である」と言う、気合いの入ったトレーニングは続いた。その内、そうした仲間十人近くで、我が家で食事会をするようになった。力が付くと言えば、肉類であったが、当時は牛肉が非常に高く、安くて栄養があり、全員が腹一杯食べられるものとして、考え付いたのが「コーリアン・バーベキュー」であった。豚の内臓であるレバーやハツ・その他を蜂蜜とニンニクに漬け込んで置き、鉄板で焼く、というものであったが、材料費が安く大好評であった。そうした鍛練と友好の日々が続き、彼等との友情は日々に膨らんで往った。そうしたある日、兄のMさんがどうしても私に禁煙を誓いたい、と言い出した。私はそうした事を強調した事は無いが、禁煙に成功した話をしたところ、「どうしても強い決意をしたい」、その為には『誓約書』を書き、自分の気持ちを固めたい、と言って立派な書体で誓約書を認めた。前から止めたいと思っていたが、とにかく仕事に行く先々で、一日に何箱も煙草を貰うので禁煙が出来なかったらしい。トレーニングを始めて数カ月して、彼から腕相撲を挑まれた。私のホームジムでは、私が身体が大きい。彼との体重差は十三キロ余り、ベンチプレス等では約二十キロ近く、私の方が有利であるが、並々ならぬ自信を見せる。このタイプに多いのだが、「今までに一回も負けた事が無い」と言う。そして全員注目の中で、腕相撲は始まったのであったが、大熱戦の末に・・・・私は負けた。凄まじいMさんの集中力であった。およそ勝負には、相手を呑み込むような「気迫」が大事である事が良く分かった。

間もなく兄弟の家業である仕事と言うのが、「ピアノ運送業」である事が、自然と分かって往った。ピアノと言うのは、楽器の王様であるが、それだけを運んでいる仕事がある事を私は知らなかった。一年中忙しいが、特に三月と四月の引越シーズンは「猫の手」も借りたい程である、と言う。「どうしてそれ専門の運送業があるんですか?」私は極めて初歩的な質問を発した。
「それは専門業者しか出来ないような重さがあるからです。どの位、重いか知っていますか?」
「さぁ・・・考えた事も無いですね」
「実はピアノと言っても、沢山ありまして、その会社・その型によって違いますが、普通のピアノで平均二百四十キロ、グランドピアノの場合、小さくても三百五十キロぐらいありますよ」
後で分かったのであるが、その頃のピアノは材質の関係で、現在のものより堅牢に出来ており、かなり重かった。「そうすると、何人かでやらないと大変ですね」
「実は小型トラックで仕事していますから、二人か、せいぜい三人です」
「そうですか、でも一日に何台もやる訳にも行きませんね」
「とんでもない、一日最低でも4台、平均して6台、二人で十台やった日もありますよ」
「え・・・」私は絶句した。
「・・・・入れ易い場所ばかりじゃ無いんですよ。団地の四階・五階となると流石にキツイですね」
「でもエレベーターとか、クレーン車とか使うんでしょう」
「そんなもの使いませんよ」
その頃、エレベーターのある団地など無かった。そして当時は、工事用の大型クレーン車しか無く、狭い団地には入る事が出来なかったし、尖端のフックが工事用で大きく、ピアノを吊るには向いていなかった。
「団地のような狭い階段は、ピアノがそのまま入りませんで、ピアノは薄い布団に包んで、特殊な帯を使って、二人で担ぐんです」
当時の業者は帯の事を『肩縄』と呼んでいた。
私はその話を聞いて再び驚いた。
「仮に人がいっぱい居ても、学校の階段のように広くはないので、二人でやるしか無いんです…。後の一人が下から押すぐらいですかね」
「そうしますと、当然階段の下を担ぐ人に負担が掛かり大変ですね」
「だけど実際に作業しますと、階段の先を行く方が大変なんですよ。それはですね、上を担ぐ人の足首がピアノと階段の間に入っていましてね、その足を抜きながら、ピアノ全体を上へ引き挙げるんです」 「・・・・」私は返す言葉が無かった。
「でも作業料なんかは相当、良いんでしょう」 「はっはっは。それが特殊な作業なのに、それほどでは無いんですよ。ですから数でこなすしか無いんです。仕事はハードですが、プロレスラーのような大男では、階段が狭くて駄目なんですよ。身体が大きいと、ピアノが回転しないんです。と言って小さいとスタミナがありませんから、四階や五階まで一気に挙げる事なんか出来ません」
「一度も休まずに、しかも揺らさずに一気に行くんですか…」
「まぁ、その時によりますが、ですから重い物を殆ど持った事の無い都会育ちの奥様の中には、ピアノと言う物がそんなに重い物では無い、と思っている人もいます。」
彼の話す一語一語が、すべて自信と誇りに溢れたものであった。こうして書くと、非常に堅苦しい生真面目臭く、面白くもないようであるが、話にはユーモアがあり、時には『オチ』もあり、愉快なものであった。
そうしたやり取りを台所で聞いていた母がこう言った。
「・・・話を聞いていると、その仕事・・・なんかお前に向いているんじゃないかい?」
「確かにお母さん、その通りです。私が阿部さんの身体を見た時、その通りだと思いました。でも私は阿部さんとの“友情”を大事にしたいんです。仕事となって、雇う会社側と、働く側となった場合・・・友達関係と言う物はなくなると思うんです…」
何もかもその通りである、と私は思った。
「でも、どんな仕事をやっているのか、良かったら一度見て下さい。明日、都の体育館で『歌の祭典』とか言って、一流歌手が集まって、午前中にリハーサルをやるので、グランドピアノを持って行きますので、一緒に行ってみましょう」
私は歌に特別な興味は無かったが、「面白そうだ」と思ったので、次の日、手伝いながら見に行った。当時の小型トラックには荷台後部のパワーゲートが無く、力が無くては上に挙がらない、と言うような方法で作業していた。そして何よりもバランスが大切であった。

会場には当時の一流歌手、人気スターが殆ど参加していた。「月の法善寺横丁」のFや、「ガラスのジョニー」のIや、デビューしたての着流しの少女Mの「涙を抱いた渡り鳥」が印象的であった。客席でなく、舞台の袖で見ていたので格別な迫力があった。そうした中で、松竹のスター女優であったBが「下町の太陽」を熱唱したのであるが、私を誰と間違えたのか、丁寧に挨拶され、恐縮してしまった。彼女はその後、あの「寅さん」の妹として、なくてはならない人となった。
歌手と言えば、平岩運送と私の家の中間に東京製菓学校というお菓子の学校があり、その前に売り出し始めた北島三郎さんが住んでいて、表札は本名で出していた。平岩兄弟の末弟のM君を「マー坊」と言って可愛がっていた。私も話す機会があったが、「ハワイへ行って来た」と言ったので、芸能人は凄いものだと思った。その頃は、普通の人にとって簡単に行ける所では無かった。あれから四十年以上も経て、浮き沈みのある世界で未だにトップ歌手として活躍しているのであるから、驚きである。

・・・ややあって、結局、私はピアノ運送業界で働くことになった。
どんな職業でもそうであるが、実際にその職場で仕事してみると「こんな筈では無かった」というような場面に遭遇する。力にはそれなりに、自身があった筈であるのに「え・・・」と言う事があった。初めから説明すると、ピアノ店へ到着すると、商品をトラックに積み込む。その際、床が傷付くので、ピアノを転がす事は厳禁である。ところが当時の運送屋は、台車を使わないのだ。店頭まで二人ないし、三人で浮かして腕の力だけでトラックまで持って行く。そのトラックには現在の車のようにリヤーゲートのような便利なものは無い。段ボール二枚を使い、回転させてトラックに載せる。下から腰の力である程度挙げ、上から一人が腕力だけで、そのピアノを引き挙げる。そして大きな白い布団を使い、顧客の家へ向かう、そして到着すると車から地面に下ろす。それを作業する人間がピアノの右と左に分かれて、特殊な強い“帯”を使い、顧客の希望する場所へ完全に浮かして慎重に、尚且つ、丁寧な物腰でピアノを納める。この際・・・女の人が立ち会うケースが多いので、柔和な表情で作業出来れば満点であるのだが、なにしろ重い商品なので、そうも行かない。ピアノの右側の部分を担ぐか、左側の方を担ぐのか、実際は大変な違いなのである。野球選手が右打席で打つのか、左打席で打つのか・・・両方ともOKという選手が少ないように、両肩OKという人は少ない。私は向かって左側の「右肩」が利き方であったが、数年して全く同じように「完璧」に出来るようになった。結局は「力の集中力」に尽きる。何年経験があろうが、逆の肩では全く素人同然となるので、怖いものである。
私がピアノの運送業界で働き始めた当初の顧客の殆どが、生活に余裕のある家が多かった。ピアノの価格は、平均月収の十五倍と言う統計もある。ローンなどは無かったが、月賦はあったが、何となく言葉の響きが悪く、現金払いの家庭が殆どであった。配達先では、心付けが出る事が多く、時には一回で日給を遥かに上回る事があった。(婚礼の時など・・・)
その前に働いていた先輩達の中には、給料が無かったと言う話もある。全部の配達先が上流階級であったので、必ず心付けがあった、という事が理由であるらしい。当時は未だ近所の{目」を気にする人が多く、暗くなってから目立たない様に納品するように、といった注文もあった。東京の郊外へ納めると、食事などの持て成しがあったが、「物乞いが馬を買った」と言うような、自分を卑下する人が少なくなかった。作曲家や有名俳優の家へも行ったが、忘れられないお客様としては、日本を代表するタイヤメーカーであるI会長の家である。その麻布の邸宅の玄関には、千円が入ったのし袋が置いてあり、その門を潜って中に入った人には、必ずそれをお手伝いさんが差し出す事になっているようで、丁度私達がグランドピアノの搬入作業をしていると、郵便配達が手紙を持って入って来た。すると、その人にまで差し出していたので、私は顔を見合せて驚いた。更に驚いたのは、その日、会長夫人が我々運転手と一緒に、何の衒いも無く、一緒に店屋物の「うどん」を食べた事であった。I会長は地下足袋の行商から身を起こし、一代で財を成したと本で読んだ事があるが・・・これが人心把握の源なのか、とも思った。
ところで、グランドピアノという楽器は、あのままの状態では絶対に運べないので、大きな布団とロープと細長く強い板で荷造ってから運送するのであるが、意外と知られていない。特にロープの絡め方が、非常に複雑なのである。 −−−−−−現在は荷締機を使うので、それ程では無い−−−−−−
会社それぞれで、フンドシとかグルとか、ロープの用途に名前を付け、板を台にして大きい布団を使い、厳重に梱包する。そしてトラックで運び、目的の場所で開梱する時は、実に簡単に外す。新入りの運転手に一回で覚えたら「天才」などと冗談を言い、一か月以内に出来るようになれば「酒を奢る」などと言う。新人はそうした梱包を早く取得しようと頑張るが・・・。肝心な所で「トラックへ行って、ドライバーを取って来い」など言って、その場から離れる様に命じたりして、覚えさせない…。古い職人気質と言うか…そうした古参がいたりして、一年経ても「うろ覚え」なんてぼやいたりする運転手もいる。グランドピアノに関しては、エピソードがある。梱包してトラックに載せると、少し不安定な面があり、急カーブで倒れてきたことがあった。それは当時、運送業者はロープを使って「ナンキン」と呼ばれる縛り方をしていたからであるが、現在は荷締機でしっかり固定するので、そうした事は無い。それは大田区の平和島温泉近くのカーブであった。
私は荷台で梱包用の布団で寝ていたのであったが、四百キロ以上もあるピアノが倒れてきた。しかしピアノはトラックの「あおり」の部分に軟着陸したので、私もピアノも何の問題も無かった。厚い布団で完全に梱包しているからでもあった。

当時・・・。自民党の有志議員が港区赤坂に「鬼族院」と言う会員制のクラブを造った。メンバーは現都知事の石原慎太郎氏や、次期総理大臣候補の中曽根康弘氏であった。あとから考えてみると、そのグランドピアノは急に納品が決まったようだ。オープンまで数時間も無いようで、とにかく渋谷の稲葉ピアノから赤坂へ急いだ。その場所はあるビルの地下にあった。普通は実際に運ぶ前に設置場所を必ず確認する。それが鉄則である。ところがその時は、どういう訳かいきなりピアノを階段を使って下ろす事になった。私がチーフでは無かったが、自然と成り行きでそうなったのである。私が階段の下を担いで降りて往ったのであるが、どうも狭いようだ!と感じた時はすでに遅かった。階段は本当に狭かった。途中で完全に嵌ってしまった。「二進も三進も行かない(にっちもさっちも行かない)」とは、この事である。一度戻って布団などを外し・・・、別の方法で、と言う事も考えたが、それも出来ない。人の手を借りるにしても、狭くてそれも出来ない。階段の上の方には人が居ても、下の方は私一人である。こんな事も殆ど無い事である。急な話なので、最少人数で現場に来たのであった。どうしても一人で何とかしなくてはならないが、どうにもならない。とにかく中へ入って気分を変えよう。そう思って私は「鬼族院」の中へ入って行った。(何から何まで順序が逆である)
仕事とはタイミングが狂うと、そうした事になってしまう。流石に会員制のクラブだけに、豪華なソファや絨毯が敷き詰めてあり、とても都心とは思えない、落ち着いた雰囲気である。
・・・なるほど、こうした静かな場所で、美人ピアニストやシンガーを侍らせて、天下団家を論じ、気分転換を図るのか。同じ赤坂でも料亭などと違い、情報なども漏れる事は無い。などと思いながら、ふと顔を上げるとそこに貫禄ある人物が腕組みをして立っていた。私は「アッ」と思った。それは中曽根康弘氏であった。まさかそんな大物が、オープン前から待っているとは想像もつかないことであった。その頃は、次期総理の本命として、体力・気力共に充実して居た頃でもあった。その目は「君、何とか事態を収拾したまえ」と言っているようであった。本当に何とかしなくてはならない。私は気合いを入れ直し、渾身の力を込めてピアノを通過させた。幸い布団の部分が当たっていたので、商品は無事であった。驚いた事に、中曽根氏はグランドピアノの据付完了まで、作業を見ていた事であった。

その頃から「ピアノ運送」の仕事が自分に適している。・・・のでは無いかと考えるようになった。それまで続けていたウエイト・トレーニングが総て役に立っている。と感じるようになった。信じられないようであるが、そうした厳しい仕事が続く日々であったが、私のホームジムで数人の仲間とトレーニングは続けていた。おまけに最後は全員揃ってフルスクワットを2百回をやる。気力が充実していて、朝食から良く考えて栄養を摂り、昼はトラックの上で、ピアノ用の大きな布団を使って休んでいたので、一晩ぐっすり眠ると、完全に疲れは取れた。若さとは全く恐ろしい物である。こうした日々が数年間も続いた。一つにはこの会社の三人の兄弟と、会話と冗談のペースが噛み合ったからである。一日中笑いの絶えない日もあった。しかし時として、その輪に入れない運転手にとって、実に過酷な職場でもあった。労働条件云々・・・を考え出したら、不満が溜まる。数日で辞めて行く者もいたが、朝八時に来て昼には、どっかに行ってしまう若者もいた。

その頃から、いわゆる「ピアノブーム」が少しずつ助走を始めた。その後、専門の運送業者も出てきたが、当時は東京でも数える程しか無かった。受注が多くなり、とても「普通の人」には出来る内容では無かった。前述したように、当時のトラックには後部のパワーゲートが無い。団地は何回でも担ぎ、一般家屋の二階設置には小型クレーン車などが無かったので、使用しなかったし、そうした便利な車など考えもしなかった。極端に狭い場所には柱を立て、その上にチェーンブロックを付け、一度ピアノを上に挙げて、目的の二階へ引き込む、と言う方法を取っていたが、同業者の運転手が事故を起こし、死亡したのはその頃であった。バランスが非常に難しく、ロープの張り方に、相当な工夫を要する。仕事であるのだ。三階への搬入で、一番速いのは『丸太上げ』というやり方である。三人一組のメンバーで、現場に到着する。一人が家へ入り、窓を外し、中の様子を見ながら、窓枠に二本の丸太を布団などを家が傷まない様に配慮して、直接トラックから斜めに掛けさせる。下の二名は、ピアノの後部上の方に太いロープを通し、ピアノを丸太にそうっと寝せる。これで上が一名、下が二名の用意が出来る。上の一名は渾力の力でロープを引く、下の二名は極限まで頭上にピアノを押し上げる。手が届かなくなったら、二階へ駆け上がる。そして三人で二階へピアノを一挙に引き寄せる。直接手が届くようになったら、三人は直接ピアノに手を掛け、最後は「気合い」で家へ入れるのだが、最後は家が傷まない様に、商品が傷まない様に、そうぅっと着地させる。力と気合いと、バランスの取れた一種のショーでもあるが、とても現在では出来ない。クレームが来る事、間違い無い。しかし当時のお客様にはそうした方法でも喜んでくれた。「家に傷を付けず、ピアノが上手く納まれば…」「ご苦労様でした。驚きました。」と言葉があったが、昨今であれば「態度・物腰・マナーがなっていない」と、言ってくるであろう。
当時のお客様の百パーセントが「戦争」という時代の体験者であったので、少々の事では動じないのである。ピアノと言う楽器の王様が家に入った満足の方が大きかった。

ある意味では、スリリングな方法ではあったが、失敗は一度も無かった。・・・・が、ほろ苦い思い出は一つある。
それはある年の猛暑の日の午後の事であった。横浜方面の仕事を経て、藤沢市の長後の住宅団地で、その日の最後の仕事として二軒隣同士の「丸太上げ」があった。若さと体力には自信満々の私達三人であったが、ジリジリとした猛暑は、かなり堪えていた。一つにはジュース類の摂り過ぎである。そうした事は識っているので、自分から飲むような事は無いが、配達先ではどの家でも、そうしたものを出す。手を付けないと、再度勧められる。失礼なので、つい飲んでしまう。
その現場に着いたのは、午後三時頃である。すでにかなり遅れている。前も触れたように、二階へ上げる時はトラックの荷台を利用して、丸太を窓へ掛けるのが理想であるが、運の悪い事にその団地のAさんの家も、Bさんの家に車が入らない。「大丈夫か?」という、不安が頭を過った。地面から直接窓に掛ける、と言うのは角度がまるで違い、常識的には三人では無理な仕事である。現場は藤沢市である。応援も頼めない、引き返す事も出来ない。また明日、と言う事は出来ない。毎日が殺人的な忙しさなのである。「やるっきゃない」のだ。
私は以前Mさんが言っていた「一に力、二に力・・・」という言葉を思い出していた。そのピアノは横文字の「S」から始まるピアノで、大型と中型のマホガニー仕様で、見た目は誠に豪華である。見た目は一番、音質は二番・・・。一台売れれば社員五人分の給料が出るらしいが、運送業者には全く関係無い話である。
「さぁ、この仕事で終わりだ。早く帰って冷たいビールでキュウっとやろう!」そう言ってMさんが気合いを入れた。
私達は、重いピアノから始め、苦しいながら、とにかく納め了えた。二台目はやや軽いピアノである。「さぁ・・・あと一台だ。」
・・・ところが、軽い筈のピアノが途中で動かなくなってしまったのである。丸太上げは「気合い」が大切なのだ。一度止まってしまったピアノは、まるで根っ子が生えたように重くなる。
力を緩めると、地面に戻る。すると、もっと苦しくなる。そればかりでは無い。ピアノが落下し始めると、必ず左右に曲がるから、丸太から外れ、商品としてダメージを受ける。
「さぁ、どうする・・・」その時である。
なんと先に納めたAさんの奥さんと、その家のBさんの奥さんが一緒になって、ロープを引き始めたではないか。(ご主人は仕事で居ない)藁をも掴む、とはこの事か…。どんな事があろうとも、引き上げなくてはならない。かくしてピアノは悪戦苦闘の末に、やっと二階へ上がったが、三人共に精も根も尽き果ててしまった。はっきり言って、奥様方の協力は、力そのものよりも、気持の上で本当に助かった。「久しぶりに、昔の運動会の綱引きを思い出したわ」
未だ若いこの二人は、そう言って笑顔を見せた。「ありがとうございました」「本当に助かりました」私達三人は口々にお礼を言った。特にMさんは畳の上に額を付けんばかりであった。
「改めてお礼に参ります」やはり家業であるから、ここまでやるのか。私は少し醒めた目で見ていた。「いいのよ、そんな事。私達も久しぶりで力を出して少し若くなった気がするわ」二人のお客様は、どこまでも好意的であった。
私達三人は後片付けをして、再度挨拶を済ませ、車に乗り込んで、正に発車しようとした時である。急に二人が出て来て、車を遮ろうとした。
「おや、何だろう?」
「ちょっと二階へ来て下さいな」
・・・何か様子がおかしいし、声の調子も大分違う。何か、物でも壊れてしまったのか・・・。
二階へ上がった三人が、一目ピアノを見た時、愕然として蒼くなった。
「しまった!!ピアノを間違えた!」
Aさんへ納めるべきピアノをBさん宅へ、Bさん宅のピアノをAさん宅に納めてしまったのであった。
「これは一体、どういう事なんですか?」
二人は異口同音に、その言葉を発した。私達は声が出なかった。真夏だと言うのに、冷汗が出てきた。
「うぅ・・・う・・・」
すいませんでは済まない話であった。急いでいたのであった。明らかに焦っていた。ピアノの色が同じであった。しかしそれは子供の言い訳である。
「早速、取り替えます」とは、とても言えない。「明日、取り替えに来ます」とも言えない。毎日が殺人的なスケジュールなのだ。
Mさんが無言の儘、畳の上に手を付き、土下座をする形を取った。後の二人もそれを真似た。こういう時は、言い訳は見苦しい。一切弁解しない方が、重みも誠意もあるのだ。はっきり言って、三万円と言うピアノの価格差が問題なのである。現在の三万円では無い。一流会社のサラリーマンでも、手取り三万五千円ぐらいの時代であった。
・・・この問題をMさんはどんな形で解決するんだろうか。三万円を運送会社が持てば、何の問題も無いが、それでは余りにも「芸」が無い。息苦しくなるような沈黙が続き、不快な汗は止まらない。もう・・・限界か。
「分かったわ。実を言うと、郷里の父から五万円送って来たのよ」
下を見ているので分からないが、高いピアノを買うハメになった奥様がそう言った。それにつられるように、「私は三万円安くなったので、パパに内緒で臍繰りしちゃおーっと」もう一人が明るく言った。「ありがとうございました。恐れ入りました。」三人は掠れ声を絞り出した。Mさんはもう一度、ピアノを出来ないと、と言質を取り、その場を後にした。これは大切な事であった。その場の感情で盛り上がったものの、御主人が帰宅して、話が拗れる事もあるからである。そして楽器店の方にも一部始終を報告し、その後の支障が無いようにクロージングをした。・・・そのように、何もかも完璧を期する人であった。そればかりでは無い、ドライブテクニックは名人の域に達していた。都内の抜け道に精通し、裏から裏へと通り抜け、最短時間で顧客の家へ到着した。狭い抜け道は、独特な「感働き」と、自身が所有していたイギリスの名車Tというオートバイで磨いたものらしい。このオートバイの価値は相当なもので、マニアなら垂唾の的であった。「乗ってみるかい?」と勧められたが、とても自信など無かった。
「森羅万象」、「神社仏閣」と言う言葉があるが、Mさんは博学多才であった。政治の話、世界の情勢・・・、ボクシング、プロレス、アメリカ映画の傍役や、各国スターのゴシップ・・・。ある時、フランス語の話になって、フランス語では「H」は発音しないんだと言ったので、私は感心するばかりであった。
・・・ある日の事、余りの博識ぶりに私が「学校の成績も相当なものだったんでしょう?」と言うと、「それは全く駄目だった」と言うので、笑いが止まらない程の大爆笑になった事があった。案外そうしたものなのかもしれない。

さて・・・、二階へ搬入する際の“丸太”の事であるが、私がその後、独立する時には梯子を使用する事にした。梯子ならば、途中でも休む事が出来るが、持ち運びに不便な所が難点であった。そしてその後、数年経て、各車トラッククレーンや、本格的なクレーン車を使う様になった。今や昔風のやり方は、三年に一度も無い位であるし、ロープも使用せず、荷締機を使うので、
「ナンキン」と言われた特有の縛り方を出来る者も少ない。
鎌倉と言えば、名刹の多い有名な場所であるが、その頃、その鎌倉の小高い丘、(小山と言うべきか)の上にピアノの工房があった。勿論小型トラックも、自転車さえも登って行けない坂道である。よりに選って、どうしてそんな所に・・・。誰でも思う疑問である。戦前からピアノのメーカーとしては、浜松市にある「Y社」と、「K社」の事は誰でも知っている。それ程の歴史は無いものの、ホルーゲールと言う名器を作っていた「Oピアノ」と言う会社もあったのだ。私は戦前の古い雑誌を見ていて、立派な広告を見て驚いた事があった。店舗は銀座の表通り、資生堂の反対側にあって、重厚感のある存在であった。その後その店を畳み、東京タワーの近くに移った。その店は前と全く違い、近代的な明るいショールームで、常時三十台以上は展示してあった。
しかし・・・、そこも去る事になり、とうとうオーナーの自宅のある鎌倉に移ったのであった。文字通りの「都落ち」である。大将は、「労働争議が原因であるらしい」と言った。その頃運送店では、社長の事をそう言っていた。その鎌倉の家が小高い丘の上に在った。トラックが入らなければ、人力で担ぐしか無かった。引き上げてきたピアノを担ぎ上げ、そしてまた、そこで再生したピアノを下ろして、トラックに載せる。作業する方もかなりの労力であるが、オーナー側も大変な気の使い方で、必ず一人五百円の食事代を心付けた。それは当時の運転手のほぼ一日分に相当した。この山の往復には、流石に「ぐぅっ」っとくるものがあった。その後のピアノ店は、残った人達で奮戦するも、この丘から落ちるが如く、倒産する。
「これが我が社の最後のピアノになります」
オーナーを始め、誰もが淋しそうであった。私達はそのピアノを、都内の顧客に納めた。

会社の大将と言うのは、Mさんの兄であったが、長兄では無かった。この人は戦後、駐留軍に勤務していた経験があり、米兵達が実際に使う“生きた英語”についてよく話してくれた。そして学校で学んだ英語などは全く通じない、とよく話していた。これを「ネタ」に随分笑ったものである。
「阿部君、水は英語で何て言うか知っているね」
「water」
「そんな発音では、全く通じないんだよ」
「本当ですか?」
「そうしたものは、日本の教室内の話だよ」
「そう言うものですか・・・」
「最初の内は何回聞いても『ワラー』としか聞こえなくてね、『藁』なんか何に使うのか?と思ったりしてね。知っているように、職が無い時代だからね、理解出来なきゃ飯が食えないからね」
「そう言う時代は大将、パンにすれば良いんですよ」
聞いていた一人が茶化す。「それこそ藁をも掴む思いですね」
そうした感じで特有の笑いが始まる。
「・・・それでなぁ、ある日ペラペラな奴に相談したんだよ。そうしたらなぁ、開き直って、むしろ完全に日本語にしちゃえと言うんだよ」
「え・・・」
「『what time is it』なんかも、『掘ったらイモ、いずこへ』掘ったらイモを強く言うんだ。これが意外にも一番通じたなぁ」
「つまり、お通じがあった訳ですね」
そしてまた、爆笑が湧く。そうした職場であった。

その頃は、気軽に英語を学べる時代では無かった。本格的にやるなら話は別であるが、町の英会話スクールなどは無かった。アメリカ映画全盛時代でもあったので、ハリウッドスターの名前や、映画の「原題」は、英語でどんな風に発音するのか・・・ぐらいの興味があった。高校時代の友人が集まると、何と言っても映画の話題が多かったし、日本の題名はこうだけど、オリジナルタイトルは「こう言うんだぜ」などと決めてみたかった。何と言っても、ベトナム戦争に介入する前のアメリカは偉大な国に見えたものである。
私にはその数年前の事であるが、どうしても忘れる事の出来ない一本のアメリカ映画があった。その名は「陽の当たる場所」、見た場所まで覚えている。有楽町のピカデリー劇場である。
誰もあるらしいが、それが私の中の永遠の名画である。これは大恋愛悲劇映画であり、最後に主人公が電気椅子で死刑になると言う、ある意味では救いようの無い物語であるが、白黒の映画であったが、実に美しい映画であった。親戚の女性達数人で観たのだが、泪が止まらなく、気恥ずかしさと感動で椅子から立てない程の衝撃を受けた。名作なので、繰り返しテレビで放映されているし、CD等も売っているが、もうあの時の感動は無い。それは・・・観ている日本人が物質的に豊かになり過ぎてしまったからだ。映画や物語や小説というものは、ある種の“飢餓感”が絶対必要なのである。この映画については以前に少し書いたので、これ以上は触れない事にする。

新宿の繁華街を控えていたせいもあるが、ピアノとは関係の無い、単なる引っ越しなどの仕事もあり、仕事が絶えるような事は無かった。一度重い物に馴れてしまうと、ピアノの運送は、それ程苦しいものでは無い。短時間の集中力と、商品に対する慎重さを欠かしてはならないが・・・。一日働いても着ているものや、顔が汚れるような事も無く、手先も石鹸で洗う程、汚れなかった。強いて不満を言えば、もう少し早い時間で仕事を終わりにしたかった。総てそれは、長い間、身体を鍛えていた事と、性格から来るものなのかもしれない。自慢にもならないが、先の事など考えた事も無かった。一つ分かっていた事は、自分は大きな会社や組織で働くタイプの人間では無い、と言う事であった。

そうした忙しい日々が続いたある日の夕方の事、珍しく早く終わる事があった。腰を上げかけた時、一人の若い男がふらりと事務所に入って来た。
「あの・・・急な話なんですが、ピアノを運んでもらいたいんですが・・・」
「今日は終わりだから、明日一番でやりますよ」
予約制なので、すぐにやると言う事は無かった。
「それがちょっと事情があって、表にいるあの人が、アメリカへ帰国するまでの間、家のピアノを貸す事にしたんです」
表を見てみると、確かに骨格が違う、身長もある、外国人のようであった。住所を聞くと、小一時間で終わりそうであるし、搬入先は会社のすぐ近くである。大将の方を振り向くと、「理由が有りそうだ。阿部君、Kと一緒に行ってやれ」と言う。一緒に行く事になったK君は、実に人柄の良い人で、どんな仕事にも決して不満を漏らす事も無く、仕事のやり易い男であった。およそ小さい職場と言うものは、こうした人達で成り立っている部分がある。

「川口」と名乗るその客のピアノは、実に簡単に車に載せる事が出来た。着地の方のマンションでは、アメリカ人が表に出て、首を長くしていた。よく聞くと、設置場所は二階であると言う。
「すいません、僕も知らなかったんです」現場に着いてからの、話の違いという事は、時々ある事である。
「二人じゃキツイんで、明日朝一と言う事で・・・」階段で上がるケースであるが、私はそう言った。 ところが、
「僕も何とか手伝いますので、お願いしますよ」
と、客の川口が懇願する。K君も「実は叔父の用で大将から車を借りるので、すぐに車を空にしたいんです」と言った。そういう事情で、二人で上げてしまった。勿論・・・客に手を借りる事も無く、そして仕事が終わると、K君はそそくさと帰って行った。川口とアメリカ人は「一服して行け」と言う。その時、私の頭の中で「知り合いになれば、生の英語の一つでも覚えられるかも・・・」と
思った事は事実である。

すぐに分かった事であるが、私達三人はほぼ同じような年齢であり、客とかアメリカ人とかの垣根が外れ、コーラがいつの間にかウィスキーになっていた。私の家は歩いて帰れる距離であり、酔っても何も心配も無い。私が驚いたのは、そのアメリカ人が「戸荷井・毛根出井」と感じで書いて、自分の名前を名乗った事であった。
「何?トニーケネディ?」私はかなり上擦った声を上げた。それにしても漢字も上手い。今でも知名度は抜群であるが、当時はその当時はその悲劇的な最後の記憶も生々しく、幼児でも識っている。尊敬もされ、人気もある大統領であった。・・・と言って、その大統領と何か関係があると思ったわけでは無いが、「ほ・ほぅ・・・」とは思った。
「彼はねぇ、日本の漢字にすごく興味を持っているんですよ。幸い僕の母が習字をやっているもんで・・・。今の内にゴマをすっておけば、将来アメリカに留学した時、何かと便利かと思ってね。ハッハッハ」と笑った。そしてゴマをする格好をした。するとケネディは、髪にリンゴの絵を描いて、ポケットから取り出したハンカチで、それを磨く真似をした。どうも話せないが、言っている事は分かるらしい。
「どうやら英語じゃ『shining an apple』と言うらしいですね」
三人は大笑いした。若さとはそうしたものか、ウィスキーの手伝いもあり、それを境に大いに盛り上がって往った。ケネディは主に、クラブ辺りで歌っている人や、英語の歌の微妙な部分の発音を、他の日本人に教えているらしい。そしてその代価で漢字を勉強していると言う。
「まぁ、ピアノの方は素人に毛が生えた程度かな・・・」
毛が生える・・・。その辺りの表現になると、良く分からないらしい。
「何か好きな曲は無いか?」と言うので、私は“マイアミビーチ・ルンバ”をリクエストした。満面の笑みを浮かべて、ルンバの王様、「ザアビア・クガード」が来日したのは、私が中学生の時である。ドラマーの「ジーン・クルバー」や、マンボの王様である「ペレス・プラウド」の事を話したり、来日はしていないが、トランペッターの「ハリー・ジェームス」とか、クラリネットの「ベニー・グッドマン」の名前を出したりして、その発音で良いのか?などと質問したりした。川口は私の出した名前では、ペレス・プラウドぐらいしか知らなかった。どうも学生時代は、猛勉強で過ごしたらしい。
そうでなければ、ある程度の英語は身に付かないようだ。一方、私と言えば、高校時代は良く銀座に出没して、並木通りのジャズ喫茶「テネシー」へ入り浸っていた。この店では、超一流の軽音楽の人達が出演していた。私のジャズ関係の知識は、この店で得たものであった。そこでは「一度も外国に行った事の無い」ことを売り物にしていた、自称「変な外国人」のトルコ人司会者の「ロイ・ジェームス」が実に歯切れの良い言葉で、良く客を沸かせた。演歌歌手以外は、総てテネシーの舞台に立った筈である。
ケネディが、映画「カサブランカ」の主題歌“時のすぎゆくままに”弾き了えた時である。「何時だと思っているのよ!」と言って、いきなり玄関から入ってきた中年女性がいた。どうやらドアが開いていたようだ。(私はすぐに帰る筈であった) 三人は忽ちシュンとなった。ケネディは外国人らしいポーズで、手を広げ方を竦めた。気が付けば、十一時をかなり過ぎていた。
「あの人はねぇ、マンションのオーナーの前の“コレ”で、ここの管理人だよ」そう言って、川口は右手の小指を立てた。ケネディも小指を立てたが、不思議そうな顔をした。それにしても管理人は、水商売で何人も人を使っていたような女性で、かなり迫力のある人であった。出て行く時、ケネディの顔を胡散臭そうに見たのが、気になった。どうも外国人が嫌いらしい。

私達三人は小声でピアノの防音装置の事を相談し、私は家へと急いだ。ピアノの弱音ペダルは当時の最新の製品には付いていたが、その川口のピアノには付いていなかった。調律の事もあるので、それは調律師に頼むとして、その他の防音対策は私と川口とが、後日する事にした。
・・・その数年後には、ある公団アパートで、ピアノの「騒音」で殺人事件まで発生したのだ。疎かに出来ない事であった。ピアノに直接取り付ける、弱音装置はあったが、その他の防音に関するグッズはまだ無かった。現在のように完全防音で、ヘッドホンでピアノを弾くような商品は、夢のまた夢であった。考え付く防音装置としては、ピアノの下にベニヤ板を二枚敷き、ピアノの背面に綿を詰めて、それを古毛布で完全に密封する事である。ピアノの「音量」は小さくなる。しかし、ピアノとしても特性は無くなる。だが、トラブルが起きるよりマシであると判断した。

私は何としても、プレスリーのナンバーから「ラブミー・テンダー」を教えてもらいたかった。当時はまだカラオケなど無かったが、良く高校時代の仲間・・・八人ばかりと集まる事があった。そうした折、バタ臭い節廻しで、それを唄いたかった。誰でも知っているように、スローな曲である。何とかなりそうな気はした。そして友人達の驚く顔を見たかった。その光景を思っただけでも、愉快であった。
数日後・・・。私と川口はケネディの留守の間、出来る限りの防音装置を施した。聞けば川口の母は、管理人に老舗の和菓子を届けたらしい。それからは川口と顔を合わせると愛想笑いをするとか・・・。どうも川口は本気でアメリカ留学を考えているようだ。大学を卒業後、準備の為、就職もせず、家庭教師で食べている。当時は超一流のエリートを除き、川口のような学生が留学する場合、いろいろ「あの手・この手」を要した。

その後、ケネディは、川口の母から贈られた硯と筆を使い、難しい漢字を書くようになっていた。初めて会ってから二ヶ月が過ぎており、驚異的な速さで会話も達者になっていた。川口が英語で話し掛けても日本語で返事をして、川口が英語の勉強にならないと、ぼやく事も再三あった。今から考えると、来日する前に、日本の事、日本人の心理・・・、そうした事を相当勉強していたようだ。そうした訳で、私の心理状態を掴む事など、朝飯前でであった。私の嬉しがるような四字成旬のような言葉をよく書いた。恥ずかしい事に、初めて目にするものもあった。
「益者三友」「下学上達」「筋肉一番」「怪力無双」等、すらすらと書いた。私にも何か書いてみろと、筆を差し出すが、曖昧な笑いでごまかした。・・・つまり、私より上手なのである。正に「曖昧模糊」である。
私と川口と三人で飲む時は、いつの間にかワイルド・ターキーと言う七面鳥が印刷されたバーボンばかり飲むようになっていた。その結果、私と川口は白人種というものが、いかにアルコール類に強いかを思い知らされた。その後、私はある本で、髪の毛からの科学的実験で、アジア系統の人間より、白人の方が強いとはっきり分かった。私の例の英語の唄の「ラブミー・テンダー」の方は、中々前へ進まなかった。私がそれとなく催促すると、「・・・え、何?ラブミー・テンダー?何を言っテンダー」などと、洒落のめされる如末であった。

私の心の何処かでは、川口とケネディとの交流も、そろそろこの辺りで・・・、と言う気分が高まってきていた。私には川口のように、明確な意思が無かった。何事によらず、只で「ものごと」を習得すると言うのは、心得え違いである。
・・・それにしても、あのアメリカ人は本当は日本へ何の為に来たのか?そういう疑問が何となく湧いて来ていた。仕事の合間にK君が言った事が気になった。K君は私とケネディのマンションへピアノを運んで行ったので、川口の事も知っていた。
「この前、夜中の十二時近くにあのマンションの前を通ったらさ、あの外人とあの人が中へ入って行くのを見たんだが、何かその・・・。怪しい関係だなぁ・・・。実は俺、以前、水商売をやってたんだが、その時いろんな『人』を見て来たんですよ。その俺の感じで言うと、あの外人“コレ”で無いかなぁ?」
と言って、右手の人差指と中指で自分の左頬を軽く押し、小首を傾げた。その手の人を表す。例のポーズである。私は大声で笑ったが、何か妙なものを感じた。・・・そう言えば、ケネディは私の腕や、太股をやたらに触りたがった。そうした一連の動作は、全く別な意味であったのか・・・。

その夜、私は「これで最後」と言う思いで、ケネディの部屋を訪れた。川口は未だ来ない、と言う。私が帰ろうとすると、「まぁまぁ・・・」と言う感じで、強引に中へ招き入れられた。外国人と狭い空間で、二人切りに成ると言う事は、間が持てないし、気詰まりである。例によってケネディは、筆で巧みに漢字を書いた「江戸時代」「歌舞伎」「少年俳優」・そして「陰間」と認めた。これが何を意味するか、理解出来る人は「ソウトウ」な人物である。
「・・・ほぅ陰間か。a shadow room だなぁ。下っ端の役者は、陽の当たらない部屋で燻っていたんだなぁ」などと、かなり見当違いの事を言った。ケネディはニヤニヤ笑うばかりであった。
陰間の本当の意味は、男色家の事である。江戸時代、舞台に出る事の無い少年達は、そういう目的の為に存在していたのだった。
つまりそうした事に詳しいトニー・ケネディは、ゲイジツ家であったのだ。だがそうした事は、総て後からはっきりした事である。

例によって私達は、バーボンを飲り出した。だが、川口は中々現れない。私の気持ちを察したのか、ケネディは私が乗って来るような話をし始めた。
「ユーは、ニューヨークカットステーキと言う、ビッグなステーキを知っているか?凄く分厚いやつだ」
当時の日本には気軽に入れるステーキ屋が無かった。一流ホテルの高額なメニューにはあったが。
「うん。食べてみたい」
「野球も好きなようだなぁ。日本にもオフに来るようだが、あれは全くの遊びだ」
「何回も観たが、親善試合だからなぁ」
「そぅそぅ、一流のボディビルダーを見たいだろう・・・。スティーブ・リーヴスとか」
「スティーブ・リーヴス、是非見てみたい」
スティーブ・リーヴスは、世界で一番美しいビルダーで、その後ヘラクレスと言う映画で成功したアメリカ人であった。
「どうだ、ネクストイヤー、川口と一緒にアメリカへ来ないか。川口は学校へ行き、ユーはパートジョブ(アルバイト)をすれば良い。ラッキリー(幸い)、叔父がニューヨークでレストランをやっているから、何とかなる」
今から四十年も前のアメリカが光り輝き、感厳に満ち満ちて活気があった時代である。それもニューヨーク・・・。既に渡航は自由であったが、現実には中々行けない時代でもあった。バーボンの利き目が有り、私の中に忽ち甘い夢が『パァッ』と広がった。その勢いで、ストレートで更にぐうっと呷った。
ニューヨークか…。一度は行ってみたい。出来れば少し滞在してみたい。二人は気持ちが昂ぶり、部屋の中をドンドンと歩き出した。(現実に私がニューヨークへ行ったのは、二十年も後の事であった)
「ヘイ、ユーの胸の筋肉をよく見せてくれ」
そう言うので、私は上半身裸になり、左右の胸をピクピクと動かした。二人共にかなり酔いが廻ってきた。なぜかその時ケネディは、ズボンと下着を脱いだのだが、この後に及んでも、私は単に酔った勢いで、ふざけているものだと思った。ケネディはアメリカ人としては、特に大男では無いが、その下半身に目をやった時、私は本当に驚いた。「え・・・何それ・・・」と言う程に立派であった。
ふとケネディの目を見ると、妙にギラギラとして、「ある意思を秘めて」いるのがハッキリと分かった。
「何だよ、その顔は」と言った時、急に抱きついてきた。
私にはレイプされる女性の心理がよく分かる。しかし私には毛頭、その気も無いし、女性でも無い。
「この野郎、何をするんだ」私は咄嗟に左脚でケネディの右脚を内側から掛けた。無意識で出た相撲の“内掛け”である。これが見事に極まり、二人共、凄い音と共に畳に倒れた。と同時に柔道の“押え込み”に入った。二人共に酔いが廻っているので、「ハァハァ」と大変な息遣いである。押え込みと言うものは、相手に完全に乗るものでは無く、上半身を押さえ込むものである。
したがって、ケネディの下半身は完全に露出している。
その時であった。例の管理人が、マスターキーを使って扉を開けて飛び込んで来た。
「あんた達、一体全体、何をやっているのよ!馬鹿もいい加減にしてよ!」
私達二人の息は荒い。上半身裸の日本人が、下半身を露出しているアメリカ人を押さえ込んでいる。完全に誤解されても仕方が無い。全く弁解の余地が無かった。私の人生で最も恥ずかしい一瞬でもあった。
「名前が立派だから部屋を貸したのに、さっさとアメリカへ帰りなさいよ」

私はシャツを片手に脱兎の如く部屋を飛び出し、階段を転がるように下り、道路を走った。気が付けば、私は裸足であった。

【私とピアノの人生◆ヾ亜